この項目では、1980年代のレーシングチームについて説明しています。2016年よりF1に参戦するレーシングチームについては「ハースF1チーム」をご覧ください。
チーム・ハースが開発したローラ・THL1(2007年撮影)
チーム・ハース (Team Haas) は、かつて存在したアメリカ合衆国のレーシングチーム。1985年から1986年にかけてF1世界選手権に参戦した。自社開発のF1マシンをローラ名義で登録したため、規定上コンストラクター(製造者)には当たらない。「ハース・ローラ」 (Haas Lola) 、「ベアトリス・ローラ」 (Beatrice Lola) 、「フォース」 (FORCE) とも呼ばれる。 チームオーナーのカール・ハース (英:Carl Haas
沿革
チーム発足
ハースはまた、アメリカにおけるローラ製レーシングカーの輸入ディーラーでもあり、シャシー名に「ハース」ではなく「ローラ」と名付けることを希望した。チームの技術顧問にはローラ代表エリック・ブロードレイの名があったが、実際にはローラは計画に参加しておらず、名義貸しのような形であった。
共同オーナー兼チーム代表には、F1に精通した人物として、1983年までマクラーレンのチーム代表を務めたテディ・メイヤーが就任した。1984年に同じくマクラーレンの創設メンバーだったテイラー・アレクサンダーと共に「メイヤー・モーター・レーシング」を設立し、CARTシリーズに参戦し成功を収めた流れからのカール・ハースからの招致だった。
チームの設計部門にはウィリアムズのパトリック・ヘッドの下で働いていたニール・オートレイとロス・ブラウンを迎え入れた。チームはイギリスのロンドン近郊のコーンブルック[1]にファクトリーを構え、運営母体となるフォーミュラ・ワン・レースカー・エンジニアリング (Formula One Race Car Engineering, FORCE[2]) を設立した。
エンジンはコスワースが新開発するフォードV6ターボエンジンの独占使用権を獲得した。ドライバーは1980年にドライバーズチャンピオンを獲得したアラン・ジョーンズと契約した。ジョーンズは1981年シーズン後に一度引退したのち、1983年にアロウズからスポット参戦していたが、今回は本格的な現役復帰となった。
アメリカのF1チームの参戦はパーネリやペンスキー(1974年 - 1976年)以来久々であり、また、大口スポンサー(ベアトリス・フーズ)、名門エンジンサプライヤー(フォード・コスワース)、チャンピオン経験者(ジョーンズ)という、新興チームとしては強力な体制が注目された。 フォードGBAエンジン(TECターボ)の完成は1985年シーズン中には間に合わないため、先に完成したTHL1シャシーにハート製の直4ターボエンジンを搭載し、一足早くF1にデビューすることになった。 第12戦イタリアGPにジョーンズの1台体制で初出場した。メカニカルトラブルが続発し、ポールタイムから約10秒遅れで辛くも予選通過したが、決勝もエンジントラブルでリタイアした。その後3戦に出場したが、南アフリカGPはジョーンズの体調不良で決勝を棄権し、残る2戦ともリタイアを喫した。 ジョーンズに加えてパトリック・タンベイと契約し、2台体制でのエントリーとなった。タンベイが負傷により欠場した際は、エディ・チーバーがスポット参戦した。 フル参戦となる2年目のシーズンは、大きな誤算の中で戦わなければならなかった。まず、メインスポンサーのベアトリス・フーズが買収され、ハースを後援していた社長が更迭された。新経営陣は'86シーズン開幕前の段階で5年契約を反故にし、1986年限りでスポンサーを降りると宣告した[3]。さらに、フォードGBAエンジンは年明けには完成し、2月下旬に新車THL2の初走行が行われたもののフォードの意向で燃費面の熟成に時間をかける方針が取られた上に、パフォーマンスは期待外れだった。ロス・ブラウンは「新型マシン(THL2)は本当にいいクルマだった。ところが、エンジンに全然パワーがなかった」、ジョーンズは「技術を駆使した小型のエンジンだったが、まったくの腑抜けだった」と振り返っている[4]。 チームは開幕2戦をハートエンジン搭載の旧型THL1で戦い、第3戦サンマリノGPからフォードエンジンを搭載するTHL2を投入した。このレースはジョーンズのみが使用し、第4戦モナコGPからタンベイにも新車が与えられた。
1985年
1986年