チヴィタヴェッキア
Civitavecchia
チヴィタヴェッキア港とミケランジェロ要塞
紋章
行政
国 イタリア
州 ラツィオ
県/大都市 ローマ
CAP(郵便番号)00053
市外局番0766
ISTATコード058032
識別コードC773
分離集落Aurelia, La Scaglia
隣接コムーネ#隣接コムーネ参照
地震分類zona 3B (sismicita bassa)
気候分類
チヴィタヴェッキア(イタリア語: Civitavecchia)は、イタリア共和国ラツィオ州ローマ県にある都市であり、その周辺地域を含む、人口約53,000人の基礎自治体(コムーネ)。ティレニア海に面し、「ローマの外港」と称される重要な港湾都市である。 都市の名は「古代の街」を意味する。 ローマ県最北西部に位置しており、北にヴィテルボ県のタルクイーニアと隣接する。ヴィテルボから南東へ約45km、州都・首都ローマから西北西に約61kmの距離にある[4]。港を中心とした半円状の市域を持つ。 隣接するコムーネは以下の通り。VTはヴィテルボ県所属。 市域東部には、モンティ・デッラ・トルファ (it:Monti della Tolfa 現在のチヴィタヴェッキアの街は、古代にエトルリア人が暮らしていた場所に立っている。 この町にある港は、2世紀の初めにトラヤヌス帝によって整備された。小プリニウスは、107年に記した書簡に Centum Cellae と記している。この名の起源ははっきりしないが、皇帝のヴィラ(離宮)にあった100(Centum)の部屋と関連付けて説明される。 その後、東ローマ帝国の支配下の拠点とったが、838年にはイスラム教徒(サラセン人)に占領された。その後、教皇領(教皇国家)の一部となった。インノケンティウス12世時代の1696年に自由港となった。 近代に入るとローマの外港として発達した。 1848年革命がイタリアに波及してローマ共和国が建国された際(イタリア統一運動参照)、介入したフランスによって1849年にチヴィタヴェッキアは占領されている。1859年にはチヴィタヴェッキアとローマを結んで、イタリア最初の鉄道路線とされるローマ=チヴィタヴェッキア線(現在のピサ=リヴォルノ=ローマ線の一部)が建設されている。1870年、この町の教皇軍はイタリア王国の将軍ニーノ・ビクシオ (Nino Bixio 第二次世界大戦中には、チヴィタヴェッキアはしばしば爆撃を受け、市民の中から犠牲が出た。 チヴィタヴェッキアは日本との関わりが深い。1615年には、慶長遣欧使節団の支倉常長らがチヴィタヴェッキアに上陸した。この縁で支倉常長が出発した地である宮城県石巻市と姉妹都市協定を結んでおり[5][6]、支倉の銅像が建立されている。 また、日本二十六聖人を記念した日本聖殉教者教会がある。1864年に、支倉とゆかりのあるチヴィタヴェッキアで献堂されたものである[5]。1950年代の再建時に内装を担当した宗教画家長谷川路可は、チヴィタヴェッキアの名誉市民になっている。また、東日本大震災の際には、この縁からチヴィタヴェッキアとフェラーリの両者が被災した石巻市に義援金を送っている。 チヴィタヴェッキア港は、中部イタリアと地中海の各地を結ぶ交通の結節点となっている。 また、漁業も盛んである。このほか、チヴィタヴェッキアには2つの火力発電所がある。このうちのひとつの燃料を石炭に転換しようとする計画があるが、大気汚染を懸念する市民の反対を受けている。 人口推移
名称
地理
位置・広がり
隣接コムーネ
タルクイーニア (VT) - 北
アッルミエーレ - 北東
サンタ・マリネッラ - 南東
地勢
歴史
古代
中世・近世
近代・現代
日本との関わり
経済・産業
人口
人口推移
年人口±%
18719,718?
188111,636+19.7%
190115,220+30.8%
191117,064+12.1%
192120,635+20.9%
193129,124+41.1%
193627,477?5.7%
195132,870+19.6%
196138,138+16.0%
197144,188+15.9%
198149,389+11.8%
199151,201+3.7%
200150,032?2.3%
201151,229+2.4%
文化・観光海から見たチヴィタヴェッキア
文化遺産ミケランジェロ要塞聖フランシスコ教会テルメ・タウリーネの浴場の遺跡
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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