チンドン屋
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チンドン屋

チンドン屋(チンドンや)は、チンドン太鼓と呼ばれる楽器を『チンチン・ドンドン・チンドンドン』と鳴らすなどして人目を集め、その地域の商品店舗などの宣伝を行う日本請負広告業の一類型である[† 1]。披露目屋・広目屋(ひろめや)・東西屋(とうざいや)[2]と呼ぶ地域もある。またカラフルな衣装を纏う人のことをチンドン屋と呼ぶ地域もある。
概要お祭り会場のちんどん屋(チンドン太鼓)

締太鼓鉦(当たり鉦)を組み合わせたチンドン太鼓などの演奏、および諸芸や奇抜な衣装仮装によってを廻りながら、依頼者の指定した地域・店舗へ人を呼び込む[3]。また集客した上で宣伝口上ビラまきなどで商品の購入を促す。街を廻りながら行う宣伝を「街廻り」、移動せず店頭で行う宣伝を「居付き」という[4]

3人から5人ほどの編成が一般的で、チンドン太鼓、楽士、ゴロス(大太鼓)を中心に旗持、ビラまきらが加わる。チンドン太鼓は、事業主である親方が担当することが多く、口上も兼任する[5]。楽士は、クラリネットサックスなどの管楽器のほか、アコーディオンで旋律を演奏する。特定の親方と雇用関係を結ばず、フリーで活動する楽士も多い。旗持は、を持ち、先頭を歩く役割で、「ビラまき」は、チラシティッシュなどを配布し、「背負いビラ」と呼ばれる店名やサービス内容が書かれたポスターのようなものを各人が背中に背負い、あるいはチンドン太鼓の前に取りつける[6]

関西では幟ではなくプラカードを持つことが多く、ビラまきを「チラシ配り」と呼ぶ。

店舗の近隣を巡る「街廻り」の仕事を基本とするが、大規模店舗や催し物の会場内を廻ることや、店の前やステージなどでの演奏を依頼されることもある。仕事の始めと終わりや、雨天時などに、留まって演奏することを「居付き」と言う[7]

宣伝活動を営利で行う点で、路上において芸を演じる大道芸人とは明確に区別される[8]。宣伝の仕事を元請けで行う、つまりクライアントから直接仕事を請け負う業者を親方といい、屋号をもつ。一方、元請けで仕事を行わない業者はフリーと呼ばれる[9]

日本国外からは、日本におけるストリートミュージックの例として取り上げられる場合もある[10]

積極的に宣伝行為をすること、派手な衣装で人目を引く行為・人物への比喩として「チンドン屋」が用いられることも多い[† 2]
語義・語源

当たり鉦と太鼓を組み合わせて一人で歩きながら演奏出来るようにした一種のドラムセットをチンドンまたはチンドン太鼓と呼び、チンドン太鼓を用いて路上で宣伝する職業を「チンドン屋」または単に「チンドン」と称する。

「チンドン」は、鉦の「チン」という音と胴太鼓の「ドン」という音を組み合わせた擬音から成立したと考えられるが、十分な用例が確認されておらず語の成立過程は明らかではない[11]

「チンドン屋」という言葉は、1878年12月11日の『郵便報知新聞』見出し「チンドン屋よろしく大道飴売」や、1889年10月6日の『東京日日新聞』見出し「条約改正論戦、チンドン屋総出の形」などに見られるように、明治初期から存在したが、用例が少なく、その語が意味する対象は明らかではない[12]

現代(21世紀)のチンドン屋に繋がるものとして「チンドン屋」の呼称が普及しはじめたのは、大正末から昭和初期と考えられ、確認できる用例は、1930年頃からある[† 3]。当初は、単独で華美な衣装を身につけ、口上を行うことに対して「チンドン屋」の呼称が用いられており、必ずしも三味線管楽器の演奏を伴わない形態であったと推察される[† 4]

チンドン屋を指して、披露目屋・広目屋という表現が用いられることがある。披露目屋は、開店披露の仕事をすることが多かったため[14]、あるいは芝居の口上に由来するとされる。広目屋は、広告宣伝、装飾、興行などを手掛けた秋田柳吉が起こした会社の名で、依頼に応じて楽隊を派遣したことで楽隊広告の代名詞として用いられるようになった[15]

関西では東西屋という表現が用いられることがある。東西屋は、大阪の勇亀(いさみかめ)が芝居の口上である「東西、東西(とざい、とうざい)」を流用して寄席の宣伝請負を行ったことから広まった[16]

現代(21世紀)、これらの語を使い分ける場合は、広目屋は楽隊の存在を重視し、東西屋は口上を主体とする意味合いを含む。この呼称は明治期から用いられ、昭和初期にチンドン屋へと変化したと思われるが[17]、歴史的経緯については、次節を参照のこと。
歴史アラスカ・ユーコン太平洋博覧会(en:Alaska?Yukon?Pacific Exposition)に参加した日本の東西屋(ちんどんや) 1909年

チンドン屋の起源については、諸説あるが[† 5]、本節では、街頭宣伝業である東西屋・広目屋の始まりから記述する。
チンドン屋前史
戦国時代末期

元来は、大歌舞伎と同じく出雲阿国のややこ踊り、かぶき踊りを起源とする。
江戸末期から明治初期:ルーツとしての飴売と大道芸

楽器を用いたり口上を述べたりして物を売り歩く職業としては、江戸中期より「飴売」という存在があり[18]文久年間には日本橋の薬店の店主が緋ビロード巾着を下げ、赤い頭巾をかぶって市中を歩き広告をしたという記録があるが[19]、これは自身の売り物を宣伝するためであり、広告請負であるチンドン屋とは異なる[19]

また、芝居小屋では鳴物囃子が客寄せのために使われていた。本項では、東西屋の祖として「飴勝」という飴売と、大道芸の「紅かん」という江戸期の人物から始める。

飴勝は、大坂・千日前法善寺を拠点として、弘化期に活動していた飴売で、その口上の見事さから寄席の宣伝を請け負うようになった[20]。短い法被に大きな笠脚袢にわらじという出立で、竹製の鳴物、拍子木を用い、「今日は松屋町の何々亭…」と呼び込みを行ったとされる[21][22]。飴勝の仕事を引き継いだ勇亀(いさみかめ)が、明治10年代に芝居の口上である「東西、東西(とざい、とうざい)」を用いて寄席の宣伝を行っていたことから、1880 - 81年頃に東西屋と呼ばれるようになった[16]。やがて、東西屋は街頭宣伝業の一般名詞へと転じた[16]。勇亀のほかには、豆友という東西屋が知られていた[16]。豆友は1891年に他界、弟が跡を継いで二代目を名乗り、初代の長男と次女を伴って活動を始めるが、1893年に感電死した[23][24]

紅かんは、安政期から明治初期にかけて活動していた大道芸人で、仁輪加の百眼を付け、大黒傘を背負い、「七輪の金網を打鉦に小太鼓を腰に柳のどう(胴)に竹の棹に天神はお玉という三味線」で演奏し、下町で人気を得ていたとされる。大正期にも通称、紅屋の勘ちゃんという男がいて、両手に三味線、腰に小さな太鼓をくくりつけて、バチで三味線と太鼓を一緒に鳴らして街を歩いたことがヒントとなってチンドンが作られたという。「紅かん」と「紅勘」の繋がりは明らかではないが、演奏芸の様態としては、チンドンの原型と言えるだろう[25]


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