チューリップ・バブル
[Wikipedia|▼Menu]
1637年のオランダのカタログ『Verzameling van een Meenigte Tulipaanen』に記載された「Viceroy(viseroij)」の名で知られているチューリップ。その球根は大きさ(エース〈aase、1エース=0.05g〉)に応じて3,000から4,200ギルダーの値がつけられていた。当時、熟練した職人の年収が約300ギルダーであった[1]

チューリップ・バブル(: tulpenmanie、 tulpomanie、 tulpenwoede、 tulpengekte、 bollengekte。: tulip mania、tulipomania、チューリップ狂時代、チューリップ熱狂)は、オランダ黄金時代ネーデルラント連邦共和国において、当時オスマン帝国からもたらされたばかりであったチューリップ球根の価格が異常に高騰し、突然に下降したまでの期間を指す[2]

チューリップ・バブルのピーク時であった1637年3月には、1個当たり、熟練した職人の年収の10倍以上の価格で販売されるチューリップ球根も複数存在した。1619年から1622年にかけて、三十年戦争の戦費調達のためにヨーロッパ全体で行われた貨幣の変造「Kipper- und Wipperzeit」にも、バブル経済類似の熱狂が存在したと指摘する研究者もいる。しかし、一般にチューリップ・バブルは、記録に残された最初の投機バブル、またはバブル経済であると考えられている[3][4][5]。「チューリップ・バブル」という語は、今日では、資産価値がその内在価値を逸脱するような大規模なバブル経済を指してしばしば比喩的に用いられる[6][7]

1637年の出来事は、1841年に英国のジャーナリスト、チャールズ・マッケイによって著された『Extraordinary Popular Delusions and the Madness of Crowds(邦題:狂気とバブル―なぜ人は集団になると愚行に走るのか)』において、広く知られるようになった。マッケイによれば、ある時には、「Semper Augustus」(センペル・アウグストゥス、日本語訳:無窮の皇帝)の球根1個に対し、12エーカー(5ヘクタール)の土地との交換が申し出られたという[8][9]。マッケイは、このような投資家の多くはチューリップ価格の下落により破産し、オランダの商業は大打撃を受けたと主張する。マッケイの著書は古典ではあるが、その記述には異論もある。現代の研究者の多くは、チューリップに対する熱狂はマッケイが記載したほど異常なものではなく、チューリップ球根に関しバブルが実際に発生したことを証明するのに十分な価格のデータは存在しないと主張している[10][11]

チューリップ・バブルの研究は困難である。1630年代の経済のデータは限られており、その多くはバイアスがかかりまた非常に推測含みの情報源からのものであるためである[12]。現代の経済学者には、チューリップ価格の上昇および下落につき、投機的な熱狂ではなく、合理的な説明を行おうとする者もいる。例えば、ヒヤシンスのような他の花もまた、初めて伝播した時点では高い価格がつけられ、すぐに価格が低下したことから、花の価格にはこのようなボラティリティがあるのだという説明がある。このほか、買い手のリスクを低減させる効果を持つ議会令が発せられるだろうという市場参加者らの期待が、価格の高騰を誘発した可能性があるという説明もある。
歴史ヤン・ブリューゲルによる『A Satire of Tulip Mania』(1640年)は、投資家を、現代的な上流階級の服装を身に着けた頭脳のない猿に描いている。経済的な愚かさに関する解説によれば、ある猿は以前は貴重であった植物の上に放尿しており、別の猿は破産裁判所に出頭し、また別の猿は墓に運ばれている。

チューリップのヨーロッパへの伝播は、一般的には、フェルディナント1世(神聖ローマ皇帝)によりオスマン帝国のスルターンのもとに派遣された大使オージェ・ギスラン・ド・ブスベックによるものといわれている[13]。ブスベックは1554年、オスマン帝国からウィーンに、チューリップの球根と種子を初めて送った[14][15]。チューリップ球根はすぐに、ウィーンからアウクスブルクアントウェルペンおよびアムステルダムに広まった[15]ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)[16]においてチューリップが人気になり栽培が本格的に開始されたのは、フランドル植物学者カロルス・クルシウスライデン大学に着任し、ライデン大学植物園を設立した後の1593年頃であると一般的に考えられている[17]。クルシウスは自らが集めたチューリップ球根を植え、チューリップがネーデルラントの厳しい環境にも耐えうることを発見した[18]。それから間もなく、チューリップの人気が出始めた[19]

チューリップは、他の植物にはない鮮烈な色味あふれる花弁をもち、当時ヨーロッパにおいて知られていたどの花とも異なっていた。比類ないステータスシンボルとしてチューリップが登場した時期は、オランダ黄金時代の幕開けと重なり、新たに独立を果たしたオランダが貿易によって富を増やしていた。アムステルダムの商人たちは、収益性の高いオランダ東インド会社の貿易の中心となっており、その貿易では1回の航海で400の利益を上げることができた[20]チューリップ・バブルの間に取引された最も高価なチューリップとして有名であるSemper Augustus(センペル・アウグストゥス)の水彩画(17世紀)。1637年の取引価格は1623年の取引価格の10倍に上昇していた[21]

結果として、チューリップは誰もが欲しがる贅沢品となり、品種が豊富になった。当時のチューリップは、いくつかのグループに分類される。赤色、黄色または白色の単色のチューリップはCouleren、多色のチューリップはRosen(赤色もしくは桃色の地に白色の縞模様)、Violetten(紫色もしくはライラック色の地に白色の縞模様)または最も珍しいグループであるBizarden(Bizarresとも。赤色、茶色もしくは紫色の地に黄色もしくは白色の縞模様)としてそれぞれ知られている[22]。花弁の、複雑な線や炎のような形の縞模様による多色の効果は、鮮やかで目を見張るものであった。このような効果を有し、多色のチューリップをより異国情緒ある植物に見せるような球根は大人気となった。今日では、このような効果は、チューリップのみに感染するモザイク病であり、1つの花弁の色を2つ以上に分けて(break)しまう「Tulip breaking virus(チューリップモザイクウイルス)」に球根が感染したため生じるものであると知られている[23][24][13][15]

栽培家らは、新品種に対し高貴な品種名を付けた。初期の新品種はAdmirael(提督)という接頭辞にしばしば栽培家の名前を組み合わせたものであった。例えば、そのように命名された約50品種の中で最も高く評価された品種は「Admirael van der Eijck(アドミラル・フォン・デル・アイク、日本語訳:フォン・デル・アイク提督)」である。Generael(司令官)も、約30品種に用いられた別の接頭辞である。後期の新品種には、アレクサンドロス3世スキピオ・アフリカヌスにあやかったり、「提督の中の提督」「司令官の中の司令官」という形をとったりした、より誇張した品種名がつけられた。しかし、品種名は場当たり的なものであり、また品質にも大きな開きがあった[25]。これら当時の新品種のほとんどは現在では絶滅している[26]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:102 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef