市旗市章
位置
ロシア内のチュメニ州(自治管区を除く)の位置
位置
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チュメニ(ロシア語: Тюмень, ラテン文字転写: Tyumen ロシア語発音: [t???m?en?])は、ロシア連邦、シベリア西部の都市。チュメニ州の州都。トゥラ川の河畔に広がる。人口は約81万人(2020年)。20年前の人口は約50万人であり、人口増加が著しい都市である。モスクワから東へ2,144 km。西のエカテリンブルクと東のオムスクの間に当たる。 チュメニはシベリアで最初のロシアの前哨であり、1586年、シビル・ハン国がロシアの攻撃を受けていた時期に、ロシア人の東方遠征を支援する目的で建設された。これ以来、チュメニは常に「シベリアへの玄関口」として重要な町であった。トゥラ川の水路とウラル山脈を越えてきた陸路が交差する位置にあったため、チュメニは小集落から瞬く間に大きな交易都市
概要
1950年代にはチュメニ油田が発見され、大きな経済成長を遂げた。チュメニ油田は旧ソヴィエト連邦最大の油田であり、今もロシア国内の原油の約6割、天然ガスの約8割を産出する。チュメニでは石油産業のほか、木材加工や化学工業なども盛ん。
水陸の交通の拠点でありウラル東部の広大な地域に広がる油田・ガス田の採掘の拠点でもあるほか、文化や教育の中心でもある。チュメニ国立大学や、劇場、博物館などがある。
歴史イェルマークを記念する十字架
チュメニのある場所は中央アジアからヴォルガ川流域に至る歴史ある交易路がトゥラ川を越える場所にあり、何世紀もの間シベリア南部の遊牧民がこの場所の支配権をめぐり争奪してきた場所だった。
チュメニ周辺はシビル・ハン国の領土であったが、1580年代にイェルマーク・チモフェイヴィッチに率いられたコサックの攻撃を受け、攻撃中の1586年7月、ツァーリ・フョードル1世は、ヴォエヴォダのヴァシーリー・ボリソフ・スキンとイワン・ミャスノイに対し、コサックが焼き払ったトゥラ川沿いのシビル・ハン国の重要都市チムギ=トゥラ(英語版)(Chimgi-Tura, Цимке-тора, トゥメン Tumen)の跡地にチュメニのクレムリ(要塞)を作るよう命じた。
1598年には完全に滅びロシア・ツァーリ国に併合されたが、シビル・ハン国の滅亡後もチュメニの要塞はタタール人やカルムイク人の軍勢の攻撃を受け続けたため、チュメニの住民の多くはストレリツィの銃兵やコサックなどといった国境警備兵であった。しかし遊牧民族の征服が進むにつれ攻撃はやがて収まり、職人などの庶民がチュメニに集まり始めた。チュメニはシベリアに作られた最初のロシア人の町である。チュメニ市街図(1808年)
18世紀初めのチュメニは、西方のヨーロッパ・ロシアと東方の清帝国、南方の中央アジアを結ぶ交易都市であった。