チュメニ
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チュメニ
Тюмень


市旗市章

位置

ロシア内のチュメニ州(自治管区を除く)の位置
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯57度10分 東経65度30分 / 北緯57.167度 東経65.500度 / 57.167; 65.500
歴史
建設1586年
行政
ロシア
 連邦管区ウラル連邦管区
 行政区画 チュメニ州
 市チュメニ
地理
面積 
  市域235 km2
標高70 m
人口
人口(2020年現在)
  市域807,271人
その他
等時帯エカテリンブルク時間 (UTC+5)
郵便番号6250xx
市外局番+7 3452
ナンバープレート72
公式ウェブサイト : ⇒http://www.tyumen-city.ru/

チュメニ(ロシア語: Тюмень, ラテン文字転写: Tyumen ロシア語発音: [t???m?en?])は、ロシア連邦シベリア西部の都市。チュメニ州の州都。トゥラ川の河畔に広がる。人口は約81万人(2020年)。20年前の人口は約50万人であり、人口増加が著しい都市である。モスクワから東へ2,144 km。西のエカテリンブルクと東のオムスクの間に当たる。
概要

チュメニはシベリアで最初のロシアの前哨であり、1586年シビル・ハン国がロシアの攻撃を受けていた時期に、ロシア人の東方遠征を支援する目的で建設された。これ以来、チュメニは常に「シベリアへの玄関口」として重要な町であった。トゥラ川の水路とウラル山脈を越えてきた陸路が交差する位置にあったため、チュメニは小集落から瞬く間に大きな交易都市・産業都市へと拡大した。1885年シベリア鉄道が開通したことも発展に拍車をかけた。チュメニ市の中心部には18世紀から20世紀にかけての都市拡大を物語る建築が数多く残る。

1950年代にはチュメニ油田が発見され、大きな経済成長を遂げた。チュメニ油田は旧ソヴィエト連邦最大の油田であり、今もロシア国内の原油の約6割、天然ガスの約8割を産出する。チュメニでは石油産業のほか、木材加工や化学工業なども盛ん。

水陸の交通の拠点でありウラル東部の広大な地域に広がる油田・ガス田の採掘の拠点でもあるほか、文化や教育の中心でもある。チュメニ国立大学や、劇場、博物館などがある。
歴史イェルマークを記念する十字架

チュメニのある場所は中央アジアからヴォルガ川流域に至る歴史ある交易路がトゥラ川を越える場所にあり、何世紀もの間シベリア南部の遊牧民がこの場所の支配権をめぐり争奪してきた場所だった。

チュメニ周辺はシビル・ハン国の領土であったが、1580年代イェルマーク・チモフェイヴィッチに率いられたコサックの攻撃を受け、攻撃中の1586年7月、ツァーリ・フョードル1世は、ヴォエヴォダのヴァシーリー・ボリソフ・スキンとイワン・ミャスノイに対し、コサックが焼き払ったトゥラ川沿いのシビル・ハン国の重要都市チムギ=トゥラ(英語版)(Chimgi-Tura, Цимке-тора, トゥメン Tumen)の跡地にチュメニのクレムリ(要塞)を作るよう命じた。

1598年には完全に滅びロシア・ツァーリ国に併合されたが、シビル・ハン国の滅亡後もチュメニの要塞はタタール人カルムイク人の軍勢の攻撃を受け続けたため、チュメニの住民の多くはストレリツィの銃兵やコサックなどといった国境警備兵であった。しかし遊牧民族の征服が進むにつれ攻撃はやがて収まり、職人などの庶民がチュメニに集まり始めた。チュメニはシベリアに作られた最初のロシア人の町である。チュメニ市街図(1808年)

18世紀初めのチュメニは、西方のヨーロッパ・ロシアと東方の帝国、南方の中央アジアを結ぶ交易都市であった。また革職人や鍛冶屋など多数の職人が住む手工業の中心でもあった。1763年には約7,000人の人口を抱えていた。

19世紀に入ってもゆるやかにチュメニの成長は続いた。1836年、シベリア最初の蒸気船がチュメニで建造され、オビ川エルティシ川流域で旅客や貨物の輸送に活躍した。1862年には電信がチュメニに到達し、1864年には上水道が敷設された。しかし1885年にチュメニに到達したシベリア鉄道が決定的に重要であった。その後東方へ延伸されるまでの数年間、チュメニはロシアの鉄道網の最東端の駅であり、ヨーロッパ・ロシアからシベリアへの貨物はチュメニで船に積み替えられ、トゥラ川・トボル川・エルティシ川・オビ川を経てシベリアを横断した。こうしてチュメニは交通の結節点になり、同時に西シベリアの交易と産業の第一の中心となった。19世紀末にはチュメニの人口は30,000人を超え、北にあるライバル都市でトボリスク県都のトボリスクを凌ぎ、トボリスクにあった地方行政の拠点機能を20世紀初頭に奪った。1944年8月14日にはチュメニはトボリスクも含む「チュメニ州」の中心になっている。ロシア帝国末期の聖職者グリゴリー・ラスプーチンは、チュメニ近郊の農村ポクロフスコエに生まれた。戦没学生記念碑

20世紀はチュメニにとって試練と飛躍の両方を経験した時期となった。革命後のロシア内戦時、オムスクに拠点を置いたアレクサンドル・コルチャーク提督の率いるシベリア白軍の支配下にあったチュメニは、1918年1月5日赤軍により占領された。1930年代ソビエト連邦のもとでチュメニは西シベリアの重要な産業都市となり工業が集積した。第二次世界大戦勃発の時点では、シベリアの蒸気船、貨物船、家具、毛皮製品、革製品のほとんどがチュメニで製造されていた。

ロシアでは「大祖国戦争」として知られる独ソ戦が始まると、モスクワのレーニン廟にあったウラジーミル・レーニンの棺は安全のために一時チュメニの偽装された墓地(現在のチュメニ国立農業アカデミーの敷地)で保存されていた。チュメニからは20,000人以上の市民が兵士として前線へ向かい、6,000人以上が戦死・病死している。しかしこの時期はチュメニの発展を後押しした時期でもあった。1941年の冬にはドイツ軍が迫るヨーロッパ・ロシアから22の工場がチュメニへ疎開し、1942年春までに操業を開始した。チュメニはまた前線で傷ついた兵士の看病に当たる「病院の町」にもなった。こうしたことがチュメニの人口と経済を押し上げる結果になった。チュメニ市街の公園

1960年代、チュメニ州付近で豊富な油田とガス田が発見されると、チュメニはソビエトの石油産業の首都となり、シベリア鉄道開通後に続く第二の人口・経済の成長期を迎えた。


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