チュニジアの歴史
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チュニジアの歴史(チュニジアのれきし、アラビア語: ????? ????‎、フランス語: Histoire de la Tunisie)では、現在のチュニジア共和国に相当する地域の歴史について述べる。
先史時代詳細は「古代チュニジアの歴史(英語版)」を参照

ルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァは、現在のチュニジアに当たる地域には紀元前10,000年頃に西アジアから原地中海人種とされる人々が移動してきたとする説を唱えている[1]

タドラルト・アカクス(1万2000年前)やタッシリ・ナジェールに代表されるカプサ文化(1万年前 - 4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々がベルベル人の先祖と考えられており[2]、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。カプサ文化は北アフリカではen:Iberomaurusian以前に存在した[3]

紀元前4,000年ごろにサハラが乾燥し、砂漠化した。
カルタゴの興亡詳細は「カルタゴ」を参照カルタゴ勢力範囲(紀元前264年頃、青色部分)。ザマの戦い

先史時代以降、内陸部にはベルベル人が居住するようになっていたが、沿岸部には地中海交易で活躍していたフェニキア人が、交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にカルタゴ市(ティルスの植民市)が建設された。カルタゴ帝国は商業を拡大する中で地中海やアフリカ沿岸に探検や入植市建設を行い北アフリカシチリア島サルデーニャ島コルシカ島バレアレス諸島イベリア半島東部に植民市を築き、勢力下に置いた。「アフリカ」は古代においては現在のチュニジアに当たる地域のみを指す言葉だったが、後にアフリカ大陸全体を指す言葉となった。

紀元前6世紀からシチリア島を巡って在地のギリシャ人植民市と対立し、三次に渡るシケリア戦争が繰り広げられた。紀元前264年からイタリア半島で勢力を伸ばしたローマ共和国との三次に渡るポエニ戦争を繰り広げた。第一次ポエニ戦争では敗戦によってコルシカとサルデーニャを失った。第二次ポエニ戦争ではハンニバル・バルカに率いられたカルタゴ軍がアルプス山脈を越えてイタリア半島に侵入し、ローマを存亡の危機に脅かしたが、ローマが態勢を立て直すとスキピオ・アフリカヌスの率いるローマ軍がアフリカに上陸し、ザマの戦いでハンニバルを破ってカルタゴは敗北した。敗北したカルタゴはアフリカ以外の全ての領土を喪失し、多額の賠償金を課せられたが、カルタゴは驚異的な速度で復興し、賠償金を完済した。カルタゴの復活を恐れたローマは第三次ポエニ戦争でカルタゴを征服し、紀元前146年にカルタゴは滅亡した。
ローマ帝国属州アフリカ詳細は「アフリカ属州」を参照カルタゴの遺跡。現存するカルタゴの遺構はローマ期に再建されたものである。

カルタゴが滅亡すると、領土は全てローマのアフリカ属州に組み込まれた。ローマ共和国の統治下でカルタゴ市は再建され、北アフリカの中心都市として栄えた。ローマ風の建築物が建てられるなどローマ化が進み、キリスト教も普及していった。

ローマ帝国の東西分裂後、チュニジアは西ローマ帝国の統治下に置かれた。5世紀になるとゲルマン系のヴァンダル人が侵入し、ヴァンダル王国が建国された。ヴァンダル王国は一時西地中海の制海権をおさえて繁栄したものの、534年東ローマ帝国ユスティニアヌス帝によって滅ぼされ、これ以降は東ローマ帝国に組み入れられた。

7世紀からイスラーム勢力のウマイヤ朝がチュニジアにまでジハードを敢行し、アラブ人の侵入が進んだ。640年以来カルタゴはアラブ艦隊の攻撃を受けるようになり、670年にはアラブ人支配地域でカイラワーンが建設された。東ローマ帝国とベルベル人は共同でアラブ人と戦い、683年に襲撃してきたアラブ軍を撃退した。この敗退によってカイラワーンはベルベル人の支配下に置かれたが、688年にアラブ軍がカイラワーンを奪回し、その後ハッサーン・イブン・ヌマーン(英語版)の遠征によって692年にカルタゴはウマイヤ朝によって攻略された。697年に東ローマ帝国がカルタゴを再攻略したが、ハッサーン率いるウマイヤ朝軍にベルベル人を率いた女王カーヒナ(英語版)と東ローマ帝国の連合軍は敗れ、698年にアラビア人がカルタゴを再奪取し、カーヒナは戦死した(カルタゴの戦い (698年)(英語版))。こうして紀元前から続いたローマ人のアフリカ支配は終焉し、ベルベル人はアラブの支配に服することになった。
チュニジアのイスラーム化詳細は「イフリーキヤ」を参照イスラーム世界の拡大。

征服後、この地域の中心はカルタゴからカイラワーンマフディーヤに移動した。チュニジアはアラビア語イフリーキヤと呼ばれるようになり、イスラーム教徒のアラブ人が土着のベルベル人を支配したことで、この地域のイスラーム化、アラブ化が進められた。チュニジア征服後アラブ人は西進し、スペインに達して西ゴート王国を征服した。737年にはザイトゥーナ大学が創設された。しかし、不正な統治が続いたため、征服直後からベルベル人とマシュリクから流入したハワーリジュ派が連合してウマイヤ朝の支配に反乱を起こすようになった[4]

その後アッバース朝の支配下に入ったが、アッバース朝カリフの指導力低下にともなって、800年にイブラーヒーム・ブン・アグラブがアグラブ朝を建国した。アグラブ朝は名目上アッバース朝の属国だったが、実際には独立していた。アグラブ朝はシチリア島に遠征し、831年にパレルモを攻略した。イタリアの諸侯は反撃したが効果は上がらず、10世紀までにシチリア島全土がアグラブ朝の支配下に置かれた。この時代にはイスラーム化とアラブ化が進み、ザイトゥーナ・モスクやカイラワーンのモスクの造営が行われた。

10世紀に入るとマシュリクからイスマーイール派が流入し、909年にアグラブ朝は滅ぼされてファーティマ朝が成立した。ファーティマ朝は建国当初よりカリフを称してメソポタミアのアッバース朝との対立姿勢を強く打ち出し、ムイッズの治世においてイフシード朝を倒してエジプトにまで勢力を伸張させた。


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