チャールズ・J・ギトー
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チャールズ・J・ギトー
Charles J. Guiteau

生誕 (1841-09-08) 1841年9月8日
アメリカ合衆国イリノイ州フリーポート(英語版)
死没 (1882-06-30) 1882年6月30日(40歳没)
アメリカ合衆国ワシントンD.C.
職業聖職者作家・政治活動家
罪名殺人罪
刑罰絞首刑

有罪判決死刑

チャールズ・ジュリアス・ギトー(英語: Charles Julius Guiteau, 1841年9月8日 - 1882年6月30日)は、アメリカ合衆国聖職者作家法律家ジェームズ・ガーフィールド大統領暗殺犯としても知られる。
生い立ち

イリノイ州フリーポート(英語版)にて、ジェーン・オーガストとルーサー・ウィルソン・ギトーとの間に、6人兄弟の四男として生まれる[1]。一家はフランス系ユグノーの血を引く名家であった[2]。1850年家族と共にウィスコンシン州ユーレイオー(現在のグラフトン)へ転居、母が死去する1855年まで同地で過ごす[3]

青年期に祖父から1000ドルを相続し、ニューヨーク大学を目指してハーレムへ赴くものの、学力不足から受験に失敗。何度かアンアーバー高校フランス語及び代数の補習を受けようとした後、父からの夥しい叱責の手紙を受け断念を余儀なくされる。

1860年6月には、父が既に深く関わっていた、ニューヨーク州オナイダ(英語版)のユートピア的宗教団体・オナイダ・コミュニティに参画。同教団は複婚の一形態である集団結婚を旨としていた[4]が、5年間にわたって結婚とは無縁の生活を送り、「チャールズ・ギトート(Gitout、 Guiteauにget outを掛けたもの)」と渾名された[5]

コミュニティを離れた後、ニュージャージー州ホボケンで「日刊神権政治」という、オナイダ教団関連の新聞を創刊しようとするが失敗[6]。オナイダに戻るものの再度離れ、教団創設者であるジョン・ハンフリー・ノイズ(英語版)を裁判で訴えた[7]。困った父は、ノイズを支援する手紙を書き送り、ギトーを無責任かつ気違い扱いしたという[8]。その後シカゴで弁護士資格を取得した。

次は神学に傾倒。しかし上梓した本と言えば、ノイズの作品を丸ごと剽窃した代物に過ぎなかった[9]。1877年12月には説教を行うため町から町へと渡り歩き、ワシントンD.C.の会衆派教会に落ち着くこととなる[10]

1880年6月11日外輪船SSストニントン号に乗船中、SSナラガンセット号と衝突事故を起こす。SSストニントン号は港に向けて引き返すものの、SSナラガンセット号が喫水線で炎上し沈没、多数の死傷者が発生(SSストニントン号の乗客で負傷者はおらず)。この出来事は、ギトーが崇高な目的を広めたため助かったのだと信じるに足るものであった[11]

その後政治家を志すようになる。1880年の大統領選挙共和党の応援演説を執筆、結局同党からはガーフィールドが候補に選ばれ当選を果たす。この勝利を自分の手柄と考えたギトーは、大使職を求めて最初はウィーンに、次いでパリに赴き掛け合うこととなる。しかし要求は容れられなかった。
ガーフィールド暗殺詳細は「ガーフィールド大統領暗殺事件」を参照ギトーに狙撃されたガーフィールド大統領(傍らにいるのはジェイムズ・G・ブレイン国務長官)[12][13]

ガーフィールドを暗殺するべく、メイナードという人物から15ドルを借り[14]、回転式拳銃を購入することにした。小火器についての知識は乏しかったものの、口径の大きな銃が必要であることだけは理解していた。そして.442口径(英語版)のブリティッシュ・ブルドッグ・リボルバー(英語版)のうち、グリップが木製のモデルと象牙製のモデルで迷った挙句[14]、暗殺後美術館にでも飾っておけるよう、グリップが象牙製の銃を選択。

持ち合わせでは足りなかったものの、店主が値段を負け売却(犯行に使われた銃は回収され、20世紀初頭にはスミソニアン財団が写真撮影さえしたものの、その後行方不明)[15]。購入から数週間は、狙撃訓練とガーフィールドの付け回しに費やすこととなる。最初は銃からの反動が酷かったという[16]

ある時、ガーフィールドが妻ルクレティアをニュージャージー州ロングブランチのリゾート地まで見送ろうとしたため、駅まで尾行し狙撃することを考えた。1881年7月2日、ボルチモア・ポトマック鉄道駅(現存せず)でガーフィールド狙撃の時を待つ。妻とロングブランチで休暇を過ごそうとしたガーフィールドが駅に入った時、背後から近づき2度銃撃。2弾目が第1腰椎を貫通するも脊髄には通らなかった。ギトーは群衆に取り囲まれる中、「俺は支持者の中の支持者だ。これでアーサーが大統領になったぞ!」と零したという[17]。その後、殺人未遂罪で逮捕。

銃撃から11週間後の9月19日、ガーフィールドが死去。死因は医師が不潔な手と不衛生な器具で傷を処置したことに拠ると見られる、感染症であった。そのため、10年後に合衆国でも一般的な物となる、殺菌処置がなされた医療器具を使っていれば、たやすく回復していたであろうとする外科医は多い[18]
裁判と処刑右手に銃を、左手に「仕事か生命か!」と書かれたメモを持つギトーの風刺画(1881年)。「模範的な求職者」というキャプションが書かれてあるのが分かる

ガーフィールドが死去すると、政府はギトーを殺人罪で告発。1881年10月14日には殺人罪で正式に起訴されることとなる。裁判は翌月14日にワシントンD.C.で始まり、裁判長はウォルター・スミス・コックスが務めた。ギトー側の弁護士はレイ・ロビンソンとジョージ・スコヴィルであったが、ギトー自身は弁護士資格を有することもあり、自らが弁護を行うと頑なに主張することとなる。

裁判では、精神鑑定医のエドワード・チャールズ・スピツカが鑑定を行った結果、「今のところ、 精神異常以外の何物でもない」のは明らかとの言葉を残す。この状態は「先天的な脳の奇形」に拠るものと考えたのである[19]

一方、ワシントンD.C.の弁護士であるジョージ・コークヒルらは、ギトーが「精神異常」と判断したのは、大衆の願望を反映したものであるとして、次のように述べている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}彼は私より精神異常ではない。ギトーは何ら気が狂っていない。世間の前で格好良く、打算的な悪党で、洗練されたゴロツキの如く振る舞ったに過ぎなかった。本当は詰まらなくて、純粋で単純な人間。結局はその単調さに飽き、何か他の種類の興奮や悪評を求めて、事に及んだのである。[20]ギトーを奇人に擬えた風刺画


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