チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード
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チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード
Charles Villiers Stanford

基本情報
生誕1852年9月30日
イギリスアイルランドダブリン
死没 (1924-03-29) 1924年3月29日(71歳没)
イギリス イングランドロンドン
学歴ケンブリッジ大学
ジャンルクラシック音楽
職業作曲家指揮者オルガニスト
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サー・チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード(Sir Charles Villiers Stanford, 1852年9月30日 - 1924年3月29日)は、アイルランド人の作曲家、教師、指揮者である。ダブリンの裕福で音楽的教養の高い一家に生まれたスタンフォードは、ライプツィヒベルリンで音楽教育を受ける以前はケンブリッジ大学で学んでいた。そのため、彼は国際的に著名な演奏家を招きケンブリッジ大学音楽部との共演を実現させることで、同楽団の地位を引き上げる立役者となった。

スタンフォードはまだ学部生だった時期に、トリニティ・カレッジのオルガン奏者に任命されている。1882年、29歳で王立音楽大学創設メンバーの一員として教授に就任した彼は、その後生涯にわたって同大学の作曲科で教鞭をとった。1887年からはケンブリッジ大学の音楽科教授も兼任した。教育者として、スタンフォードはモダニズムに懐疑的な姿勢を示しており、彼の講義は主にブラームスの音楽が好例となるような古典的な原理に基づいて行われた。スタンフォード門下からは、彼自身をも凌ぐほどの名声を得た、ホルストヴォーン・ウィリアムズなどといった作曲家が輩出した。また彼はバッハ合唱団[注 1]リーズ音楽祭[注 2]の指揮者であった。

スタンフォードは7つの交響曲を含むかなりの数の楽曲を作曲しているが、最も記憶されているのは聖公会伝統の様式による、教会での演奏用に書かれた合唱曲だろう。彼はオペラも精力的に作曲したが、完成させた9つのオペラは一般的なレパートリーとはなり得ていない。批評家の中にはパリーマッケンジーなどとともに、スタンフォードを英国音楽の復活の立役者であると見る者もいる。しかしながら、彼の音楽は19世紀の最後の20年においてこそ大きな成功を収めたものの、その後20世紀に入るとエルガー並びに彼自身の門弟たちの活躍の陰に隠れてしまうことになるのである。
生涯
幼少期ヨアヒムビュータンパッティ

スタンフォードはダブリンの生まれで、ジョン・ジェームズ・スタンフォード(John James Stanford)の2番目の妻であるメアリ(Mary(旧姓ヘンHenn))との間に生まれた唯一の息子である[1]。父ジョンはダブリンでは名の通った弁護士、大法官府裁判所の証人尋問官、そしてミース県の官吏であった[2]。妻はアイルランドの大法官高等裁判所長であったウィリアム・ヘン(William Henn)の三女である[3]。夫妻はともにアマチュアの音楽家であった。ジョンはチェリストであるとともに、1847年メンデルスゾーンの『エリヤ』のアイルランド初演時のタイトル・ロールを務めるほどのバス歌手でもあった[4][注 6]。メアリはアマチュアのピアニストで、ダブリンで行われるコンサートでは協奏曲のソリストを務めるほどであった[4]

スタンフォードは少年期、ダブリンの私立学校で特筆すべきところのない一般的な教育を受けたが、学校を経営していたヘンリー・ティルニー・バセット(Henry Tilney Bassett)は他の学問を差し置いて西洋古典学に没頭していた人物であった[6]。スタンフォードの両親は彼の早熟さに目をつけ、ヴァイオリンピアノオルガン作曲というように次々教師を雇い、彼の音楽的才能を伸ばそうとした。それら教師のうち3人はイグナーツ・モシェレス門下であり、エリザベス・ミーケ(Elizabeth Meeke)もその一人だった。スタンフォードは後にこう回想している。「私が12歳になる前、彼女は私に初見で演奏することを教えた。(中略)彼女は毎日レッスンの最後に、私にショパンマズルカを一曲弾かせたが、間違ってもそこで止まることを決して許さなかった。(中略)52曲のマズルカを全て終えたとき、私は大抵どんなレベルの曲でもかなり指を楽な状態にして取り組めるようになっていた[7]。」少年スタンフォードの最初期の作品の一つである行進曲変ニ長調は、3年後にダブリン王立劇場[注 7]でのパントマイムの中で演奏された[8]。9歳の時、彼は客を招待してのピアノリサイタルを行い、ベートーヴェンヘンデル、メンデルスゾーン、モシェレス、モーツァルトバッハの作品を演奏した[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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