グレートブリテン王国の政治家第2代ロッキンガム侯爵
チャールズ・ワトソン=ウェントワースCharles Watson-Wentworth
2nd Marquess of Rockingham
生年月日1730年5月13日
出生地 グレートブリテン王国、イングランド・ウェントワース
第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワース(英: Charles Watson-Wentworth, 2nd Marquess of Rockingham, KG, PC、1730年5月13日 - 1782年7月1日)は、イギリスの政治家、貴族。
ホイッグ党ニューカッスル公爵派として頭角を表し、1765年に首相となり、自由主義改革やアメリカ植民地人のための改革を行ったが、1766年には国王ジョージ3世との不仲や大ピット派の取り込み失敗など政権の不安定化により国王に更迭された。下野後には「ロッキンガム派」と呼ばれる明確な野党派閥を形成して国王や親国王内閣の批判を行うようになり、これによって政治思想で与野党に分かれて論争を行うという現代的な意味での政党政治がイギリスに根付くようになった。アメリカ独立戦争をめぐってもアメリカ独立を擁護し、頑なに認めようとしない国王やノース卿内閣を批判した。アメリカ独立戦争の敗戦が決定的となった1782年3月にノース卿内閣の倒閣に成功し、代わって第二次ロッキンガム侯爵内閣を組閣した。行政改革やアメリカとの交渉を行ったが、同年7月に死去した。
生涯
首相就任まで若い頃のロッキンガム侯爵を描いたリチャード・ハウストン(英語版)の絵画。
1730年5月13日、初代ロッキンガム侯爵トマス・ワトソン=ウェントワースとその後妻メアリー(第2代ノッティンガム伯爵ダニエル・フィンチの娘)の長男として生まれた[1]。初代ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースは高祖父に当たる。
ウェストミンスター校からケンブリッジ大学へ進学した[2]。15歳の頃の1745年には父に無断でカンバーランド公ウィリアム・オーガスタスの軍に従軍している[2]。1748年から1750年にかけてはヨーロッパ旅行をした[2]。
1750年9月17日にはアイルランド貴族爵位モルトン伯爵に叙せられる[3]。ついで同年12月14日の父の死によりロッキンガム侯爵位とヨークシャー、ノーサンプトンシャー、アイルランドにあるロッキンガム侯爵家の所領を相続した。1751年から貴族院議員となる[2]。しだいに貴族院ホイッグ党の中で頭角をあらわしてきた。
1760年に即位したばかりのジョージ3世の寝室侍従長(英語版)となったが、7年戦争の早期講和を目指すジョージ3世は、1762年に首相初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホリスを辞任に追いやり、第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートを首相にしてパリ条約締結へ向けて動いた[4]。これに反発したロッキンガム侯爵は1762年に職を辞した[2]。
以降ホイッグ党ニューカッスル公爵派の派閥に属した[5]。ビュート伯爵は権謀術数でニューカッスル公爵派が野党として団結することを阻止しようと図ったが、それに反発するニューカッスル公爵派の議員たちは、1762年12月23日にニューカッスル公爵の甥のオンズローの家で定期的な会合を行うことを決めた。