Charles Rolls
生誕1877年8月27日
ロンドン・バークリー・スクエア
チャールズ・スチュアート・ロールズ(英: Charles Stewart Rolls、1877年8月27日 - 1910年7月12日)は自動車と航空機の先覚者。彼はフレデリック・ヘンリー・ロイスと共同で、自動車製造会社のロールス・ロイス[1]を設立した。彼はイングランドのボーンマス近くで実演飛行中、乗機ライトフライヤー号の尾部が破断して墜落し、飛行機事故で死亡した最初のイギリス人となった。32歳だった。 ロールズは初代ランガタク男爵
生い立ち
1894年には受験のためケンブリッジの私塾に通い、トリニティ・カレッジに入学後は機械学と応用科学を学んだ。1896年、18歳の時に彼はパリに旅行し、彼にとって初めての車となるプジョーのフェートンを購入し、フランス自動車クラブ(英語版)に入会した。彼のプジョーは、ケンブリッジ在住者が所有した最初の車と言われており、ウェールズで最初に所有された3台のうちの1台である。自動車狂のはしりともいえる彼は、Self-Propelled Traffic Association(自動推進型交通組合)に参加した。この団体は、赤旗法が自動車に課した制限への反対運動を展開し、のちロールズが設立メンバーともなったイギリス自動車クラブと合併した[4]。
ロールズは1898年にケンブリッジ大学を卒業したのち[5]、蒸気ヨット(英語版)のサンタ・マリア号で働き、次いでクルーのロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道(英語版)に勤務した[3]。しかし彼の才能は実務的な技師としてよりは、販売術および自動車業界の先覚者という分野で発揮された[6]。1903年1月、父から 6,600 ポンドの援助を得て、ロールズはイギリスで初めてとも言える自動車販売店 C.S.Rolls & Co. をフラムに開き、フランスのプジョーとベルギーのミネルヴァ(英語版)を輸入・販売した。
ロールズは長身であり、身長が約1.95mあった。
ロイスとの提携詳細は「ロールス・ロイス」を参照
自動車クラブの友人でありロイスの取締役でもあったヘンリー・エドマンズはロイス・10HPをロールズに見せた上で、1904年5月4日マンチェスターのミッドランド・ホテル(英語版)における、ロールズとロイスの歴史的な出会いをセットした。ロールズは3気筒ないし4気筒の車を好んでいたが、2気筒のロイス・10HPに感銘を受け、のち1904年12月23日に交わした契約において、ロイスが生産し得る全ての車を引き受けることに同意した。それらは2、3、4、6気筒の車で、ロールス・ロイスの記章がつけられることになった。ダービー産業博物館のブロンズ胸像
ロールス・ロイス初の車となったロイス・10HPは、1904年12月にモンディアル・ド・ロトモビルで披露された。初期の宣伝では、ロールズの名がロイスの名より強調されていた。1906年に両名はロールス・ロイスを設立することによって提携を正式なものとし、ロールズは技術管理取締役として年俸750ポンド、加えて収益で1万ポンドを超過した分の4%を受け取ることになった。