チャールズ・レノックス_(第4代リッチモンド公爵)
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His Grace(英語版)
第4代リッチモンド公爵
チャールズ・レノックス
KG PC


アイルランド総督
任期
1807年4月11日 ? 1813年6月23日
君主ジョージ3世
首相第3代ポートランド公
スペンサー・パーシヴァル
第2代リヴァプール伯
前任者ジョン・ラッセル
後任者初代ホイットワース伯(英語版)
英領北アメリカ総督
任期
1818年 ? 1819年
君主ジョージ3世
前任者サー・コープ・シャーブルック(英語版)
後任者第9代ダルハウジー伯爵

個人情報
生誕1764年12月9日
ゴードン城(英語版)
死没1819年8月28日(1819-08-28)(54歳)
リッチモンド(英語版), 英領北アメリカ
国籍イギリス
政党トーリー
配偶者シャーロット・レノックス(英語版)
子供14人の子供あり。詳細は本文を参照。
親ジョージ・レノックス卿(英語版)
ルイーザ・カー

第4代リッチモンド公爵チャールズ・レノックス(英語: Charles Lennox, 4th Duke of Richmond,KG PC1764年12月9日 - 1819年8月28日)は、イギリスの貴族政治家イギリス陸軍軍人。
生涯

ジョージ・レノックス卿(英語版)(第2代リッチモンド公爵の次男)とルイーザ・カー(Louisa Kerr、1830年没、第4代ロジアン侯爵(英語版)の娘)との長男として誕生した[1][2]。母ルイーザは旅行中に産気づいたため、チャールズは納屋で生まれたという[3]。彼は軍人の道を選び、1787年に23歳の若さでコールドストリーム近衛連隊付大尉の地位を得る[3][4]。この昇進には首相ウィリアム・ピットの口利きがあったという[3]
二度の決闘公爵の決闘相手であるヨーク公フレデリック

彼が佐官時代の1788年夏ごろは、時の国王ジョージ3世が健康状態を悪化させて錯乱状態に陥ったことから、摂政法改正が論争となっていた[5][6]。チャールズはその議論の際に、不行跡著しいプリンス・オブ・ウェールズを徹底的に批判したため、その王弟ヨーク・オールバニ公フレデリックから決闘を挑まれて、1789年5月にウィンブルドンで決闘に及んだ[2][3][7]。チャールズの放った弾丸は公爵の髪をかすめたが、ヨーク公は空砲を撃って最早敵意のないことを示したことで両者ともに怪我なく終結している[2][3][8]。この余波を受けて、彼はヨーク公が長を務める近衛連隊から第35歩兵連隊(英語版)付中佐へと転出となった[3][9]

同年7月には、詩人セオフィラス・スイフト(英語版)に自身を非難する手記を発表されたため、スイフトとも決闘に及んでいる[2][3][10]その結果、スイフトは負傷したが致命傷ではなかったという[10][11]

同年9月にゴードン公爵家令嬢シャーロットと結婚[1][4]、これがきっかけで彼の孫の代(第6代リッチモンド公爵)に同家の莫大な財産がもたらされることとなる[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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