チャールズ・ウィリアム・ジョセフ・エミール・ルジャンドル
生誕1830年8月26日
ウラン、フランス
死没1899年9月1日(69歳)
ソウル、大韓帝国
死因脳卒中
国籍アメリカ合衆国
教育ランス大学、パリ大学
職業軍人、外交官
配偶者Clara Victoria Mulock
池田絲
ソウルにあるルジャンドルの墓
チャールズ・ウィリアム・ジョセフ・エミール・ルジャンドル(Charles William (Guillaum) Joseph Emile Le Gendre、1830年8月26日 - 1899年 9月1日)は、フランス生まれのアメリカの軍人、外交官。名前はリジェンダー[要出典]、リゼンドル、リセンドル、李仙得、李善得とも言う。
1872年から1875年まで明治政府の外交顧問、1890年から1899年まで朝鮮王高宗(1897年からは大韓帝国皇帝)の顧問を務めた。十五代目市村羽左衛門は実子。声楽家の関屋敏子は孫にあたる。目次 ルジャンドルはフランスのウラン(Oullins 1861年に南北戦争が勃発すると、ルジャンドルは第51ニューヨーク志願兵歩兵連隊の兵士募集に協力し、1861年10月29日に同連隊の少佐に任官した。その後ノースカロライナでの戦闘に従事し、1862年のロアノーク島の戦いにも参加した。しかしながら、1862年3月14日、ニューバーンの戦いで重傷を負った。 負傷にもかかわらず、ルジャンドルは軍を離れず、同年9月20日には中佐に進級。1863年には第9軍に配属され、多くの戦闘に参加した。1863年3月14日には大佐に進級。ヴァージニアの荒野の戦いではユリシーズ・グラント将軍の指揮下にあったが、その最中の1864年5月6日、ルジャンドルは再び重症を負った。今回は顔面を撃たれ、左目と鼻を失った。アナポリスの病院に入院したが、その間にも南軍の最後の攻撃から街を防衛するための準備を手伝った。その後ニューヨークに移送され、そこで第9軍の兵士募集を手伝った。1864年10月4日に名誉除隊したが、1865年3月13日には准将に名誉進級した。 1866年7月13日、ルジャンドルは厦門の米国領事に任命された。7月にニューヨークをリバプールに向けて出港し、その後ヨーロッパ、アジア大陸を旅行し12月に厦門に到着した。領事として、ルジャンドルは5つの条約港、すなわち厦門、基隆、台北、淡水および高雄に責任を持った。そこでは、年季奉公人の不正取引の抑制に尽力した。
1 経歴
1.1 渡米まで
1.2 南北戦争
1.3 中国
1.4 日本
1.5 韓国
2 家族
3 著作
4 ルジャンドルが登場する作品
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
経歴
渡米まで
南北戦争
中国