チャールズ・マンソン
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チャールズ・ミルズ・マンソン
Charles Milles Manson
1968年
生誕1934年11月12日
アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ
死没2017年11月19日(2017-11-19)(83歳)
アメリカ合衆国カリフォルニア州ベーカーズフィールド
職業カルト指導者
罪名殺人、共謀
刑罰終身刑

有罪判決殺人罪共謀罪

チャールズ・ミルズ・マンソン(Charles Milles Manson、1934年11月12日[注 1] - 2017年11月19日)は、アメリカに存在したヒッピーコミューンの指導者であり犯罪者。1960年代末から1970年代の初めにかけて、カリフォルニア州にて「ファミリー(マンソン・ファミリー)」の名で知られるコミューンを率いて集団生活をしていた[1][2][3]。1969年のテート・ラビアンカ殺人事件(英語版)で悪名高い。
人物概要

ファミリーができあがり始めた当時のマンソンは、さまざまな犯罪行為のために矯正施設でそれまでの人生の半分を過ごした。殺人を犯す前の時期の彼はミュージシャンを志しており、ザ・ビーチ・ボーイズデニス・ウィルソンとは人を介してつながりがあった。マンソンによって書かれ演奏された曲が数曲レコーディングされており、ガンズ・アンド・ローゼズマリリン・マンソンを含む歌手たちが、数十年にわたって彼の歌をカバーしている。マリリン・マンソンのリードボーカリスト、ブライアン・ヒュー・ワーナーは、「マンソン」の名を「悪の象徴」として使用している。

マンソンの支持者らは、1969年の7月と8月に、4か所で9件の殺人を犯した。殺人の動機についてマンソンは異議を唱えたが、ロサンゼルス郡検察はマンソンが人種間戦争の勃発を企図したと結論づけた[4]。1971年に、第1級殺人罪と映画女優シャロン・テートを含む7人に対する殺人の共謀罪で有罪判決を受けた。検察の主張によると、マンソンは直接には殺人を指示しなかったが、マンソンの主義主張は共謀の明白な行為を構成するとされた[5]

カリフォルニア州の最高裁判所にて、1972年にマンソンに対する死刑が決定したが、死刑制度が一時的に廃止されたことで、マンソンは自動的に終身刑に減刑された[6]。カリフォルニア州では、最高刑として死刑が復活したが、コーコラン刑務所(英語版)に服役中のマンソンには何ら影響を及ぼすことはなかった。
生涯
生い立ちFCIターミナル・アイランドでのマグショット1956年5月2日撮影)

オハイオ州シンシナティでキャスリーン・マドックスとカール・スコットの間に生まれる。5歳の頃に母親とその兄(マンソンの伯父に当たる人物)がガソリンスタンドを襲撃したことによって逮捕され、懲役5年の実刑判決を言い渡されたため、祖父母の家に引き取られて育てられた。しかし、その後、親戚を転々とし、最終的に12歳で孤児院に入れられた。犯罪を繰り返しては施設を出入りした。16歳で救護院に、表面的には模範収容者として振舞いつつも他の収容者に重傷を負わせ少年院に送られた。1954年に19歳で仮釈放されウエイトレスと結婚し子供が生まれたが、自動車泥棒で逮捕され別れた。刑務所ではセラピーを受け、人を操る才能に磨きをかけ、元ギャングのアルヴィン・カーピスからギターを習った。刑期を終えたマンソンが出獄したのは1967年3月21日で、小銭とギターだけを持ってバスでサンフランシスコに向かった。
ヒッピー・コミューンからカルト指導者へ

1960年代後半のサンフランシスコは、ヒッピー文化に浮かれていた。町には長髪の若い男女があふれていた。若者たちはベトナム戦争への徴兵を忌避することに熱をあげ、ハイト・アシュベリー地区では、LSDコカインを楽しむヒッピー文化が盛んだった。マンソンは街角で歌いながら、図書館司書のメアリー・ブルンナーと知り合い彼女のアパートで同居するようになる。言葉巧みに若い女たちに同情して、ドラッグも与えて心を掴みアパートへ連れていき同居した。1968年にロサンゼルスのハリウッドに数十人のメンバーと移り、ドラッグ売買、物乞い、クレジットカード泥棒で生計を立てながら言いなりになった女を使って男もメンバーに加えた。

ロック・バンドザ・ビーチ・ボーイズのメンバーデニス・ウィルソンは、ヒッチハイク中のファミリーの少女を乗せた縁でマンソンを紹介された。親しくなったファミリーは彼の屋敷に居候することとなる。紹介されたミュージシャンでプロデューサーのテリー・メルチャーのプロデュースによってマンソンはシンガー・ソングライターとしてデビューする予定だったが、結局テリーが約束を守らずにマンソンのデビューの夢は流れた。

1968年5月、ウィルソンが転居したため彼の屋敷から出たマンソンの一行はカリフォルニア州チャッツワースにある西部映画撮影用のスパーン牧場を知り、この地のオーナーである盲目の老人、ジョージ・スパーンから馬の世話と日々の雑用をするかわりにファミリーが移り住むことを認めさせた。ここでは量販店から廃棄食料を調達し、たいていの時間はドラッグで陶酔するかセックスをして過ごしていた。
最終戦争「ヘルタースケルター」

マンソンはサイエントロジーの分派「最後の審判プロセス教会」(Process Church of the Final Judgment)を拠り所としていた[7]。「最後の審判プロセス教会」はアドルフ・ヒトラーを崇拝し、最後の審判において自分たちが選民として役割を果たすと信じていた。マンソンはエリック・バーン交流分析や、火星人の教育を受けた主人公が新宗教を開くが地球人に殺されるという筋のハインラインによるSF小説『異星の客』に影響を受けた[7]

マンソンはカルマ思想やヒンドゥー教左道タントラに訴え、「死は変化に過ぎない」「魂や霊は死ねない」「善も悪も存在しない」と語った[7]。マンソンはブラックムスリムブラックパンサー党などの黒人たちが蜂起して白人に戦争を仕掛け、白人を全滅させて世界を支配するという最終戦争を確信していた[7]。この人種戦争が勃発するその日のことを、マンソンは「ヘルタースケルター」(ヘルター・スケルター)と呼んだ。マンソンはビートルズの『ホワイト・アルバム』の曲にハルマゲドンによる革命と救世主マンソンが表されていると解釈した[7]。マンソンは、カリフォルニア州中部のデスヴァレーに巨大な地下世界につながる穴があり、この穴の中でファミリーたちは終末戦争の間暮らすのだという幻想に取り憑かれていた。ファミリーにヘルター・スケルターへの備えを呼びかけた。戦争があると思うと、ファミリーたちは興奮して、武器や車両を蓄えて、射撃訓練にも励んだ。ついにはマンソンが殺せと言えば人殺しも辞さない殺人集団へと変貌していくことになる。


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