チャールズ・マクレイ
[Wikipedia|▼Menu]

チャールズ・オマー・マクレイ
Charles Omer Makley

生誕1889年11月24日
アメリカ合衆国・オハイオ州オーグレーズ郡セントメアリーズ
現況死没(44歳)
死没1934年9月22日
アメリカ合衆国・オハイオ州フランクリン郡コロンバス
別名ファットチャールズ
職業ギャング
罪名銀行強盗
刑罰射殺

有罪判決死刑
収監場所インディアナ州刑務所
オハイオ州刑務所

チャールズ・マクレイ(Charles Omer Makley, 1889年11月24日 - 1934年9月22日)は、1930年代アメリカ合衆国のギャング。 デリンジャーギャングのメンバーとして有名になった(マクレー、マックリーと表記されることも多い)。
略歴
若い頃

1889年11月24日、オハイオ州セントメアリーズで生まれた。5人兄弟の長男で2人の弟と2人の妹がいた。中学2年で中退し、10代で窃盗や密造酒などの手軽な犯罪に手を出した。 両親は離婚したが、1910年の国勢調査には20歳のマクレイが石工の父親と一緒に働いているという記録が残っている。

本格的な犯罪に足を踏み入れたのは30歳になってからで、逮捕と釈放を繰り返すようになった。
脱獄

1924年8月、35歳のマクレイはインディアナ州ハモンドの銀行強盗で逮捕され懲役10年から20年の刑を言い渡された[1]

インディアナ州刑務所に収容され、ハリー・ピアポントホーマー・ヴァン・メータージョン・デリンジャージョン"レッド"・ハミルトンラッセル・クラークなどの犯罪者と知り合った。1933年5月、ヴァン・メーターとデリンジャーが仮釈放されたが、デリンジャーは仲間を助けようと銀行強盗で資金集めをして、刑務所内に密かに拳銃を差し入れた。この拳銃を使って1933年9月26日、マクレイを含む10名の囚人がインディアナ州刑務所を脱獄した。
デリンジャーギャングの形成

脱獄したあと、マクレイはピアポント、クラーク、レッド・ハミルトン、エドワード・シャウスらと行動を共にした。オハイオ州ライプシックのピアポントの生家でデリンジャーと合流するはずだったが、彼は再び逮捕されてしまいオハイオ州ライマの郡拘置所にいた。

ピアポントはデリンジャーを助けるため、マクレイの生まれ故郷のセントメアリーズにあるファーストナショナル銀行を襲い逃走資金を集めた[2]。手慣れたもので1発も発砲することなく11,000ドルを強奪したが、銀行員がマクレイの顔に見覚えがあり翌日の新聞は犯人の1人がチャールズ・マクレイだと報じた[3]

10月12日、拘置所に着いたピアポントはエドワード・シャウスに外を見張らせ、マクレイ、クラークと3人で建物に入った。管理者のジェス・サーバー保安官(Jess Sarber,47)に「デリンジャーを州刑務所に移すために来た」と伝えたが、書類や身分証を要求されたためピアポントが発砲した。腹部を撃たれ床に倒れた保安官の頭をマクレイが拳銃で殴りつけた。そして保安官の妻と副保安官を牢屋に閉じ込めデリンジャーを解放した。サーバー保安官は数時間後に死亡した。

2日後、彼らはインディアナ州の2つの警察署から武器と弾薬、防弾チョッキを奪い、インディアナ州グリーンキャッスルの銀行を襲って7万4千ドルを奪うなどさらに凶悪化した。マクレイはデリンジャー、ピアポント、ハミルトンに次ぐ「公共の敵No,4」にランクされた。マスコミは彼らを『デリンジャーギャング』と呼んだ。
逮捕現在のホテル・コングレス

1934年1月25日、イーストシカゴのファーストナショナル銀行を襲ったあと、デリンジャー、ピアポント、マクレイ、クラークの4名は2,500キロ南のアリゾナ州ツーソンのホテル・コングレス ⇒Hotel Congressに隠れた。

しかし宿泊して2日後の朝、ホテルのボイラー室から火災が発生した[4]。炎は彼らが泊まる3階まで広がり、マクレイとクラークははしご車で救助された。しかしクラークが2人の消防士に12ドル(現在の250ドル)の謝礼を渡したためこの消防士の注意を引くことになる。署に戻った消防士は犯罪雑誌 “True Detective” のバックナンバーを読み返し、マクレイとクラークの手配写真を見つけた[5]

警察は荷物の配達先を追跡し隠れ家である貸家を突き止めた。契約者はJ.C.デイヴィスという人物で、後にチャールズ・マクレイの偽名と判明。警察は4日間に渡って彼らを尾行し、マクレイは無線機店にいるところを逮捕された[6]。逮捕されたとき794ドル(現在の約1万6千ドル)を所持していた。

その後全員が逮捕され、ピアポント、マクレイ、クラークの3人はサーバー保安官殺害の裁判を受けるためチャーターした列車でオハイオ州に移された。デリンジャーはインディアナ州に移送された。
死刑判決

1934年3月24日、オハイオ州ライマで裁判が始まった。(裁判に向かうマクレイ

弁護はデリンジャーの顧問弁護士のルイス・ピケットが就き、仲間のエドワード・シャウスは3人の犯行を証言した。シャウスはずっと分け前の取り分に不満を持ち続けていたといいその腹いせだった[7]。マクリーの裁判のとき、検察がピアポントの逮捕時の状況について警察官に質問している最中、マクレイは突然「俺の代わりにピアポントが裁判にかけられているようだな!」と大声をあげて遮ったという[8]

判決はマクレイとピアポントに死刑、クラークに終身刑が言い渡され、3人はオハイオ州刑務所に入れられた。3月にデリンジャーがインディアナ州の拘置所を脱走しており、彼が助けに来るかもしれないという微かな望みを持っていたが、デリンジャーは7月にシカゴの映画館で捜査局に射殺された。
脱獄の試み

ピアポントとマクレイは石鹸を削ってリボルバーを自作し、1934年9月22日に脱獄を決行した。6名の死刑囚に声をかけ、クラークも独房から出してやったが彼は引き返した。しばらくして看守が駆け付け、鉄格子のドアで行く手を阻まれているマクレイとピアポントを銃撃した。マクレイは胸と腹を3発撃たれその場で死亡した[9]。ピアポントは背中と頭を撃たれながらも何とか生き延びたが、翌月電気椅子で死刑執行された。

地元新聞によるとマクレイ家は身内に犯罪者がいることを隠し続けており、彼の死を一切関知しなかった[10]。そのため唯一の友人ピアポントの両親がいるオハイオ州ライプシックで葬儀が執り行われ、近くのシュガーリッジ墓地に埋葬された[11]

マクレイは頭の回転が早く皆を笑わせるのが得意で、仲間は親しみをこめて「ファットチャーリー」と呼んだ[12]。裕福なビジネスマンのような風貌と振る舞いを持ち合わせており、普段は保険のセールスマンなどをしながら一般市民に紛れて暮らしていたという。
登場する作品

デリンジャー」”Dillinger” 演 - ジョン・P・ライアン(1973年の映画)

「デリンジャー」”Dillinger” 演 - ラムゼイ・ミッドウッド(1991年のテレビ映画)

パブリック・エネミーズ」”Public Enemies” 演 - クリスチャン・シュトルテ(2009年の映画)

脚注

出典^ Bolt, Lightning (2020年8月27日). “Home Brewed Mojo: JOHN "RED" HAMILTON”. Home Brewed Mojo. 2024年3月5日閲覧。
^ “ ⇒A Bank Robber, But No Murder”. www.charlesmakleywasframed.com. 2024年4月2日閲覧。
^ “St. Marys tied to Dillinger gang”. The Daily Standard. 2024年3月4日閲覧。
^ Verdugo, Elvia (2024年1月13日). “John Dillinger's eventful capture in Tucson: the history and how it's remembered today” (英語). This is Tucson. 2024年3月25日閲覧。
^ hradmin (2021年6月1日). “Dillinger's Daring Escape - The History Reader” (英語). The History Reader. 2024年3月5日閲覧。
^ hradmin (2021年6月1日). “Dillinger's Daring Escape - The History Reader” (英語). The History Reader. 2024年3月5日閲覧。
^ “St. Marys tied to Dillinger gang”. The Daily Standard. 2024年3月5日閲覧。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:15 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef