チャールズ・ブランドン_(初代サフォーク公爵)
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チャールズ・ブランドン、1530年頃

初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドン(: Charles Brandon, 1st Duke of Suffolk, 1484年頃 - 1545年8月22日)は、イングランド貴族、軍人、廷臣。イングランド王ヘンリー8世の寵臣。一介の騎士の息子に生まれながら驚異的な早さで出世し、1514年にサフォーク公に叙爵された。1515年にはフランスルイ12世の未亡人となった王妹メアリーと結婚、後に孫娘の一人ジェーン・グレイが短期間ながらイングランド女王となっている。
目次

1 生涯

1.1 出生と幼少期

1.2 宮廷での青年時代

1.3 サフォーク公爵

1.4 王妹との結婚

1.5 晩年


2 子女

3 フィクション

3.1 文学・小説

3.2 映像作品


4 参考文献

5 脚注

6 外部リンク

生涯
出生と幼少期 ボズワースの戦い、フィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ画、1804年

サー・ウィリアム・ブランドン(英語版)と、エセックス州サウス・オッケンドン(英語版)の地主サー・ヘンリー・ブルーイン(Sir Henry Bruyn)の跡取り娘エリザベス・ブルーイン(Elizabeth Bruyn)の間の息子として生まれた。ウィリアムと弟のサー・トマス・ブランドン(英語版)はリチャード3世を敵視しており、第2代バッキンガム公ヘンリー・スタッフォードによるリチャード3世に対する1483年の反乱にも参加した。反乱軍の壊滅後、兄弟はブルターニュ地方に逃れ、イングランド王位を請求するリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)の与党となった。母エリザベスは1484年にパリで長男を産んだとされるが、これがチャールズなのか兄弟のウィリアムなのかは判然としない。ただし、チャールズの洗礼名はフランスシャルル8世にちなむものであるため、この長男はチャールズである可能性が高い。

1485年、父ウィリアムはリッチモンド伯とともに侵攻軍に加わってイングランドに渡った。そして同年8月のボズワースの戦いの最中、リッチモンド伯の王旗を掲げる旗手として従軍した際に、リチャード3世本人の手にかかって落命した。
宮廷での青年時代

1494年3月に母が死ぬと、チャールズ・ブランドンは孤児となった[1]。この間にヘンリー7世の宮廷で重要な役職に就いていた叔父のトマスが、おそらくチャールズを宮廷に呼んだと思われる。1501年、ブランドンは王太子アーサーの婚礼の翌朝に近侍したが、王太子夫妻の新居ラドロー城には随行しなかった。17世紀の歴史家ウィリアム・ダグデイル(英語版)は、ブランドンはこの時期にヘンリー王子(後のヘンリー8世)の侍臣となった、ないしヘンリーと一緒に教育を受けていたと考えたが、この主張に根拠はない。ただし、ヘンリー王子の侍従の妻メアリー・レディング(Mary Redyng)はブランドンの実の叔母であり、夫妻が王子の家政を取り仕切っていたため、ブランドンはヘンリー王子の家臣団と近しい関係にあったことは間違いない。

1503年頃、ブランドンは王の食卓係として正式な宮廷の一員となり、1505年から1509年にかけてエセックス伯ヘンリー・バウチャー(英語版)に仕える騎兵大尉となった[2]


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