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出典検索?: "チャールズ・フロイド"
チャールズ・アーサー・フロイド
Charles Arthur Floyd
1933年頃(29歳)
生誕1904年2月3日
アメリカ合衆国・ジョージア州バートゥ郡アデアーズヴィル
現況死没
死没1934年10月22日(30歳)
アメリカ合衆国・オハイオ州イーストリヴァプール
別名「プリティボーイ・フロイド」
「社会の敵No.1」
「チョック」
「クックソンヒルズのロビンフッド」
職業ギャング
罪名殺人、銀行強盗
配偶者ルビー・ハードグレイブス・カークウッド(1921-1924)
子供チャールズ”ジャック”・デンプシー・フロイド
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チャールズ・アーサー・フロイド(Charles Arthur Floyd、1904年2月3日 - 1934年10月22日)は1930年代の世界恐慌時代に有名になったアメリカ合衆国のギャング。プリティボーイ・フロイドの呼び名で知られる。 1904年、ジョージア州バートウ郡の農家で、8人兄弟の4番目に生まれた。 善良な両親と祖父母と共に暮らす普通の子供だった[1]。7歳のとき、オクラホマ州の綿花畑が儲かるらしいと聞いた父親は家族を連れてセコイア郡コックソンヒルズに引っ越すが、貧しい暮らしは変わらなかった。 15歳で大農場に出稼ぎに行くのだが、そこには放浪生活をしながら各地から来たアウトローが数多く働いており、一緒に生活するうちに彼らの生き方に感化されたようである。帰ってきたとき両親は息子の変化に気付いていた[2]。 17歳になって1歳年下のルビー・ハードグレイブと結婚し、息子のチャールズ”ジャック”・デンプシーが生まれた[3]。 18歳のとき地元の郵便局で3ドル50セント(現在の約80ドル相当)を盗んだが、裁判に被告が現れず不起訴となった[4]。その後も友人と商店やガソリンスタンドから金を奪い、セントルイスで給料輸送車を襲撃した容疑で逮捕され3年間服役した[1]。妻は息子を連れてカンザス州の実家に帰った。 "プリティボーイ"・フロイドと呼ばれるようになったのもこの頃である。ポンパドールの髪型を入念に手入れしていたという説[5]、ボタンアップカラーの白いドレスシャツとスラックス姿で油田採掘現場で働いていたという説、襲われた店の店員が『リンゴのようなほっぺたの可愛い少年だった』と話したという説など様々だが、本人は非常に嫌っており、故郷のオクラホマ産のチョクトービールにちなんだ「チョック」という愛称を気に入っていたという[6]。 その後もフロイドは次々に重大犯罪を繰り返す。 1930年、強盗で警察官を殺害。オハイオ州で銀行強盗で逮捕され懲役15年を言い渡されたが、移送中の列車から飛び降りて逃亡。 1931年、密造酒の売人兄弟が殺害された事件の容疑者に指定され、カンザスシティでは連邦捜査官を殺害。 1932年、オクラホマ州で保安官と撃ち合い負傷させる。同州ボリーのファーマーズ&マーチャンツ銀行の強盗未遂事件[7]。 オクラホマ州は彼の身柄に6千ドルの懸賞金を約束した。しかし新聞は『銀行を襲って住宅ローンの書類を燃やして貧しい農民の借金を帳消しにした』『貧しい家族や老人を見かけると気前良く金銭を分け与えた』などと彼の美談を報じるようになった[1]。世界恐慌のさなか、彼は大衆の人気者になっていた。 1933年6月、カンザスシティのユニオン駅前で3人組のギャングが移送中の仲間を助けようと短機関銃を乱射し、捜査局の局員2名と警官2名、囚人1名が惨殺されるという、いわゆる『カンザスシティの虐殺事件』が発生した。 事件から2週間後、捜査局はヴァーノン・ミラー、プリティボーイ・フロイド、フロイドの親友のアダム・リチェッティの3人が実行犯だと発表した[要出典]。アダム・リチェッティ(1909-1938) しかしフロイドとリチェッティが本当に事件に関わったのか、今も歴史研究家の間で大きく意見が分かれている。フロイドが関わった犯罪の中でこれだけが異質であること、当時のギャングは犯罪を自慢し合ったものだがフロイドは一貫して否定し続けたこと、捜査局が提示した証拠や目撃者の証言はいずれも根拠に乏しいことなど不可解な点が多い。 カンザスシティ虐殺事件の少し前、フロイドとリチェッティはファニータとローズというベアード姉妹と付き合い始めた。フロイドとファニータはサンダース夫妻、リチェッティとローズはブレナン夫妻という偽名を使ってニューヨーク州バッファローのアパートに潜んでいた[8]。静かに暮らし、ときどき近所の子供らがお菓子や小銭を貰ったりするので悪い噂は立たなかった[9]。 1934年7月にジョン・デリンジャーが死亡すると、捜査局は「公共の敵No,1」をフロイドに命名した。捜査が強化されることを恐れたフロイドは故郷のオクラホマへ逃げようと提案し、ローズに金を渡してフォードのセダンを購入してきてもらった。10月18日、4人は出発したがオハイオ州ウェルズヴィル辺りで濃霧に遭い、車がスリップして電柱にぶつけてしまった。レッカー車を呼んだが、女性は町にいるほうが安全だろうとレッカー車に乗せフロイドとリチェッティは道端で待つことにした[10]。 夜が明けた頃、車で通りかかった男性が道路脇で銃を持って寝ているスーツ姿の2人組を不審に思い通報した。警官2名が到着し、2人は森の中に逃げ込むが撃ち合いになり、リチェッティが肩を撃たれ逮捕された[11]。 リチェッティは自分はリチャード・ザンボーニだと名乗り、一緒にいたのは友人のジェームズ・ウォーレンで金は昨晩カードゲームで勝ったのだと説明したが警官に発砲した理由を答えられなかった[12]。署長は指名手配中のアダム・リチェッティとチャールズ・フロイドだと確信し捜査局に知らせた[13]。 フロイドは通りかかった車をジャックしたが間もなくガス欠になってしまい車を降りた(ガス欠は運転手の演技だった)。次に花屋の車に乗り込むが、検問があったため再び近くの森に逃げた。花屋の男性2人は手を挙げて車から降りようとしたが保安官はフロイドの仲間と勘違いし発砲、1人が足を撃たれ車にも4発が当たった。数日後に捜査局のメルヴィン・パーヴィス捜査官が彼らを見舞いに訪れ、仲間の報復の恐れがあるので取材は受けないようにと忠告したという[14]。 1934年10月22日、フロイドは森や農場を2日間さまよい昼過ぎに一軒の農家に辿り着いた。48時間でわずか12キロしか移動しておらず[15]、無精髭を生やし紺色のスーツと白いシルクのシャツは酷く汚れていた。 農家の男性に食べ物をくれないか尋ねたが断られたので(この時代は食事を恵んで欲しいと玄関をノックする放浪者は珍しくなかった)道だけ教えてもらった。
生い立ち
若い頃
犯罪者へ
カンザスシティの虐殺
逃走
逃走
リチェッティの逮捕
最後の晩餐
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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