チャールズ・バーニー
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1781年のジョシュア・レイノルズ卿によるチャールズ・バーニー

チャールズ・バーニー(FRS Charles Burney、1726年4月7日 ? 1814年4月12日)は、イギリスオルガン奏者、音楽史家、作曲家、音楽家、音楽学者。娘は作家のフランシス・バーニーとサラ・バーニー、息子は探検家のジェームズ・バーニーと大英博物館の古典学者で本の寄贈者であるチャールズ・バーニー・ジュニア。バーニーは二度にわたりヨーロッパを旅行して音楽史を編纂した。2つの旅行記はヨーロッパ音楽史研究における重要な著作となっている。邦訳は2020年になって初めて出版された。

1744-46年 トマス・アーンに学び、1769年オックスフォード大学で音楽博士号を取得。1770年フランスとイタリアに、1772年オランダ、ドイツ、オーストリアに音楽史執筆のための資料収集旅行を行い、2つの旅行記を発表した。また 1776-89年に4巻の『音楽史概説』A General History of Musicを発表。 1783年以後チェルシー王立病院のオルガン奏者として活躍。
初期の人生とキャリア

チャールズ・バーニーは、1726年4月7日に、シュルーズベリーのレイヴンストリートで、音楽家、ダンサー、肖像画家であったジェームズ・マクバーニー(1678?1749)の2番目の妻アン(クーパー出身、1690‐1775年頃)との間に、ジェームズの6人の子供の4番目として生まれた。子供の頃に彼と兄のリチャード(1723?1792)はコンドーヴァー(Condover)「ナースボール」へ里子に出され、1739年までそこに住んでいた。彼は1737年にシュルーズベリー校で正式な教育を始めると、1739年にチェスターキングス・スクールへ転入し、父親はスクールに居住して働いた。彼の最初の音楽の教師は、大聖堂のオルガニストでありジョン・ブロウの弟子であったE・ベイカーだった[1]。 15歳でシュルーズベリーに戻ったバーニーは、セント・メアリー教会のオルガニストである異母兄弟のジェームズ・バーニーの下で3年間音楽の勉強を続け、その後トマス・アーン博士の弟子になり、ロンドンに3年間居住した [2]

バーニーは1745年3月30日にドルリー・レーン劇場で上演されたアーン博士のオペラ、『アルフレッド』(Alfred)のためにいくつかの音楽を作曲し、1749年にはフェンチャーチ・ストリート (Fenchurch Street) のセント・ダイオニス(聖ディオニシオ)・バック教会(St Dionis Backchurch)のオルガニストに年俸30ポンドで任命された。また近年コーンヒルのパブ、キングス・アームズで催された「ニュー・コンサート」でチェンバロを演奏することにも従事していた。その後バーニーは健康を害したため、1751年にノーフォークキングズ・リンへ赴き、そこで年俸100ポンドでオルガニストの職に就いた。バーニーはそこに9年間住み、その間に普遍的な音楽通史を著すという構想を抱いた。聖セシリアの祝日のための彼のオードは、1759年にラニラ・ガーデンズ (Ranelagh Gardens) で上演された。1760年にバーニーは健康を取り戻し、新しい家族と共にロンドンに戻った。バーニーの最初の子供、長女のエスターは、8歳でチェンバロ奏者として活躍してロンドンの人々を驚かせた。バーニーがロンドンに戻った直後に出版したチェンバロのための協奏曲は大いに賞賛された。 1766年、彼はドルリー・レーンで、ジャン=ジャック・ルソーのオペラ「村の占い師」 (Le devin du village) の翻訳と翻案を「カンニング・マン」というタイトルで制作した。
家族と社会生活

1749年、ロンドンでオルガン奏者およびチェンバリストとして働いている間、バーニーはエスター・スリープと結婚した。夫婦には6人の子供、チェンバロ奏者のエスター(ヘティー)、 探検家のジェームズ・バーニー、著名な作家フランセス・バーニー(しばしばファニーと呼ばれる)、スーザン(スージー)、シャーロット(後のフランシス夫人)、そして古典主義者で学校の校長であるチャールズ・バーニー・ジュニアがいた。エスター(ヘティ)は、後にいとこのチャールズ・ルソー・バーニーと結婚してバーニー夫人になった[3]

バーニーとその家族の生活はノーフォークからロンドンの活発な文化の中に移り、。その中には、肖像画家のジョシュア・レイノルズ卿、辞書学者のサミュエル・ジョンソン、劇作家のリチャード・ブリンズリー・シェリダン、作曲家のハリエット・ウェインライト、著述家のエドマンド・バークサザークの議員・ヘンリー・スレイルがおり、スレイルの妻ヘスター・スレイルはフランセスの親友だった。これらはフランセスによって鮮明に記述された。

バーニーの最初の妻エスターは1761年に亡くなり。 1767年にリン時代の友人スティーブン・アレンの未亡人エリザベス・アレンと2度目の結婚をした。この結婚から息子のリチャード・トーマスと、小説家になった娘のサラ・ハリエット・バーニーが生まれた。
その後のキャリア

バーニーは1769年6月23日に学士号と音楽博士号を取得し、オックスフォード大学ではバーニーを称えて彼自身の作品が演奏された。これは、序曲、ソロ、レチタティーヴォ、コーラスを伴うアンセムと、演奏されなかった8声部のアンセムで構成されていた。 1769年に、1742年から出現した主な彗星の記録についてのエッセイを出版した。バーニーは様々な専門的な趣味を持っていたが、本来の研究目的である音楽史の編纂をも失うことはなかった。バーニーは海外に旅行して、英国では入手できない資料を収集することを決断した。

彼は1770年6月にロンドンを離れ、数多くの紹介状を携えて、パリジュネーブトリノミラノパドヴァヴェネツィアボローニャモーツァルトと出会った場所)、フィレンツェ、ローマ、ナポリを旅行した。バーニーの取材は、『フランス、イタリアの音楽の現状』( The Present State of Music in France and Italy) (1771) として出版され、高い評価を得た。


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