チャールズ・バベッジ
チャールズ・バベッジ (1860)
生誕 (1791-12-26) 1791年12月26日
イングランド ロンドン
死没 (1871-10-18) 1871年10月18日(79歳没)
イングランド ロンドン
国籍 イングランド
研究分野数学、哲学、計算機科学
研究機関トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)
出身校ピーターハウス(ケンブリッジ大学)
主な業績数学、計算機械
署名
プロジェクト:人物伝
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チャールズ・バベッジ(Charles Babbage、FRS、1791年12月26日 - 1871年10月18日[1])は、イギリスの数学者。哲学者、計算機科学者でもあり、世界で初めて「プログラム可能」な計算機を考案した[2]。検眼鏡の発明者。
「コンピュータの父」と言われることもあり[3]、初期の機械式計算機を発明し、さらに複雑な設計に到達した[4]。その完成しなかった機械の一部はロンドンに所在するサイエンス・ミュージアムに展示されている。1991年、バベッジの本来の設計に基づいて階差機関が組み立てられ、完全に機能した。これは19世紀当時の技術の精度に合わせて作られており、バベッジのマシンが当時完成していれば動作していたことを証明した。9年後、サイエンス・ミュージアムはバベッジが階差機関用に設計したプリンターも完成させた。 ロンドンに生を受ける。正確な生誕地については議論があるが、ロンドンの 44 Crosby Row, Walworth Road
誕生
生まれた日は『タイムズ』紙の死亡記事から1792年12月26日とされている。しかしその死亡記事が出た後、生まれたのは1791年だと甥が書いている。教会の記録によれば、バベッジが洗礼を受けたのは1792年1月6日となっており、生まれたのが1791年だったという説を裏付けている[6][7][8]。
父ベンジャミン・バベッジ (Benjamin Babbage) は裕福な銀行家であったが元は金細工師であった。母はベッツィー・バベッジ (Betsy Plumleigh Babbage)。1808年、一家はテインマス
東部に移り、父は近くの St. Michael’s Church の教会委員となった。父が裕福であったため、小学校時代に複数の家庭教師をつけるなど、熱心な教育を受けさせた。10歳のとき[10]生命を危うくするほどの発熱を経験し、療養をかねて田舎(エクセター近郊のアルフィントン)の学校に通うようになる。両親は学校に「あまり脳に負担をかけないようにしてください」と依頼し、本人は「こんなに暇では馬鹿になるかもしれない」と思ったと後に述べている。デヴォン州トットネス(英語版、フランス語版、ドイツ語版)の King Edward VI Grammar School に入れられ、ここですぐに体力を回復すると、再び家庭教師を付けてもらえるようになった[11]。その後ミドルセックス州インフィールドにある30人の生徒を持つホルムウッド・アカデミーに参加し、スティーブン・フリーマン牧師に学ぶようになった。このアカデミーには膨大な蔵書があり、それによって数学に興味を持つようになる。アカデミーを離れてからさらに2人の家庭教師について学ぶ。一人はケンブリッジに住む聖職者で、バベッジは後に「何も得る物が無かった」と述べている。もう一人はオックスフォードの家庭教師で、ケンブリッジに入学できるだけの古典について学ぶことができた。
1810年10月、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学[12]。ここでゴットフリート・ライプニッツ、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、トーマス・シンプソンらの著作を読みふけり、ケンブリッジの数学教育のレベルの低さに失望した。その結果として1812年、ジョン・ハーシェルやジョージ・ピーコック(英語版)らと共に解析協会(英語版)を設立。バベッジ、ハーシェル、ピーコックは後に裁判官となったエドワード・ライアン(英語版)とも親しく、ライアンは後に科学の後援者となった。また、バベッジとライアンは後に姉妹とそれぞれ結婚し、義理の兄弟になっている[13]。バベッジは学生として他の団体にも参加しており、超常現象を研究する The Ghost Club(英語版)、精神病院からメンバーを解放することを目的としている Extractors Club などがある[14][15]。
1812年、ケンブリッジ大学のピーターハウス(英語版)に移る[12]。ここで数学者のトップとなったが、卒業することはできなかった。代わりに名誉学位を試験無しで1814年に与えられている。
結婚、家族、死バベッジの墓
1814年7月[16]、デヴォン州テインマスの St. Michael's Church でジョージアナ・ホイットモア (Georgiana Whitmore) と結婚。シュロップシャーのダッドマストン・ホール(英語版)というカントリー・ハウスを新居としたが(ここで自らセントラルヒーティングシステムを設計)、その後ロンドンに引っ越した。
8人の子供をもうけたが[17]、成人したのは4人だけだった。妻は1827年9月1日、ウスターで死去。同年、父、次男、生まれたばかりの末っ子が相次いで亡くなった。その後1年をかけてヨーロッパ大陸を旅行したため、階差機関の構築が遅れることになった。
1871年10月18日、79歳で死去。ロンドンのケンサル・グリーン墓地(英語版)に埋葬された。Horsleyによれば、「腎臓を患い、膀胱炎を併発して」亡くなったという[18]。1983年、バベッジの検死報告書が発見され、後にバベッジの玄孫が公表した[19][20]。また、複写が公開されている[21]。バベッジの脳は、半分がイングランド王立外科医師会に保管され、もう半分がサイエンス・ミュージアムにて展示されている[22]。