チャールズ・ハワード_(第11代ノーフォーク公)
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イギリス政治家第11代ノーフォーク公爵
チャールズ・ハワードCharles Howard
11th Duke of Norfolk
1780年代にトマス・ゲインズバラが描いた第11代ノーフォーク公爵の肖像画
生年月日1746年3月15日
没年月日 (1815-12-16) 1815年12月16日(69歳没)
死没地 イギリスロンドン・セント・ジェイムズ・スクエア(英語版)・ノーフォーク・ハウス(英語版)
所属政党ホイッグ党
称号第11代ノーフォーク公爵枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)、ロンドン考古協会フェロー(FSA)
配偶者(1)マリアン
(2)フランセス
軍務伯
在任期間1786年8月31日 - 1815年12月16日
庶民院議員
選挙区カーライル選挙区(英語版)
アランデル選挙区(英語版)
在任期間1780年 - 1786年
貴族院議員
在任期間1786年8月31日 - 1815年12月16日
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第11代ノーフォーク公爵チャールズ・ハワード(: Charles Howard, 11th Duke of Norfolk, PC FRS FSA1746年3月15日 ? 1815年12月16日)は、イギリスの政治家、貴族。

代々カトリックであるノーフォーク公爵の中でプロテスタントに改宗した異色の人物である。プロテスタントに改宗したため庶民院議員・貴族院議員を務めることができ、ホイッグ党の政治家として自由主義的な活動を行った。

父が爵位を継承した1777年から自身が爵位を継承する1786年までアランデル=サリー伯爵(Earl of Arundel and Surrey)の儀礼称号を使用した。
経歴ジェイムズ・ロンズデール(英語版)が描いた晩年のノーフォーク公の肖像画。

1746年3月15日、後に第10代ノーフォーク公となるチャールズ・ハワードとその妻キャサリン(旧姓ブロックホールズ)の息子として生まれる[1]。グレイストック城(英語版)でカトリックの家庭教師から教育を受けて育つ。またフランスにも長く留学していた[1]

当時はカトリックに議員資格の無い時代であったため、政界入りを希望していた彼は1780年プロテスタントに改宗した[2]。そして1780年1784年の選挙でカーライル選挙区(英語版)から当選して庶民院議員となった[1]。議会内では自由主義政党ホイッグ党に所属し、フォックス派として自由主義的な活動を行った[1]1780年にはジョン・ダニング提出の「王権を封じるべし」との動議に賛成した[3]。またアメリカ独立を擁護し、アメリカへの派兵に反対した[1]

1782年8月に副軍務伯となり、1782年9月にはヨークシャーの西リディング知事(英語版)に就任した[1]

1786年8月31日に父が死去し、第11代ノーフォーク公爵位とノーフォーク公爵家の世襲職軍務伯職を継承した[1]。プロテスタントに改宗していたので、そのまま貴族院議員となる[4]。貴族院議員となった後も自由主義者として活動し、奴隷貿易廃止や選挙法改正を訴えた[3]。また1798年1月24日の晩餐会の席上では「人民という君主のために乾杯する」と音頭を取ったが、これに国王ジョージ3世が激怒し、西リディング知事の役職を免職されている[3][1]

1807年1月14日にはサセックス知事(英語版)に任じられているが[1]、死去の直前の1815年6月にマグナ・カルタ六百年記念パーティーを催しており、最後までホイッグ貴族として自由主義者の立場を崩さなかった[3]

1815年12月16日にセント・ジェイムズ・スクエア(英語版)のノーフォーク・ハウス(英語版)で死去した[1]。同月23日にサリー州ドーキング(英語版)に埋葬される[1]

嫡出子の男子がなかったため、三従兄弟(みいとこ)のバーナード・ハワードがノーフォーク公爵位を継承した[1]


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