初代ノッティンガム伯爵
チャールズ・ハワード
Charles Howard
1st Earl of Nottingham
ノッティンガム伯爵ハワード家
ノッティンガム伯爵(1620年頃、ダニエル・マイテンス画)
称号第2代エフィンガムのハワード男爵、初代ノッティンガム伯爵
出生1536年
死去1624年12月14日
配偶者キャサリン(旧姓ケアリー)
マーガレット(旧姓ステュワート)
子女一覧参照
父親初代ハワード男爵
母親マーガレット(旧姓ガメッジ)
役職海軍卿
初代ノッティンガム伯爵チャールズ・ハワード(英語: Charles Howard, 1st Earl of Nottingham, KG、1536年 - 1624年12月14日)は、イングランドの貴族、政治家、海軍軍人。
1585年から1619年にかけて海軍卿(英語版)を務め、アルマダの海戦をはじめとするスペインとの戦争(英西戦争)を指揮した。また、当時人気のあった劇団海軍大臣一座(英語版)のパトロンでもあった。
経歴1604年のイングランドとスペインの終戦条約(英語版)締結を描いた絵画。右側の窓から2人目がノッティンガム伯。
1536年、第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの末子である初代エフィンガムのハワード男爵ウィリアム・ハワードとその妻マーガレット(旧姓ガメッジ)の長男として生まれる[1][2]。父はエリザベス1世の大叔父に当たり、王女時代のエリザベスを庇護した[3][4]。
1559年にフランソワ2世のフランス国王即位の祝賀のための大使を務めた[2][5]。1569年の北部諸侯の乱(英語版)の際には第3代ウォリック伯アンブローズ・ダドリー(英語版)のもとで騎兵隊の司令官を務めた[2][5]。
1573年1月に父の死去によりハワード男爵位を継承、第2代エフィンガムのハワード男爵となった[1][2][5]。1574年4月にガーター騎士団ナイト(KG)に叙される[2][1]。
1585年5月に海軍卿(英語版)に就任した[2][5][6]。慎重にして勇敢なハワード卿は瞬く間に船乗りから絶大な信頼を寄せられた[4][7]。翌1586年に元スコットランド女王メアリーの裁判で審問委員にも任命された[5]。
1588年には海軍総司令官として副司令官フランシス・ドレークとともにアルマダの海戦を指揮した[5][8]。ハワード卿はこれまでの海戦の常識を打ち破る大型船での火船戦術を採用してスペイン無敵艦隊に大打撃を与え、同艦隊を撃退することに成功した[9][10]。
しかし海戦の勝利後、政府は海軍軍人に対して恩賞はおろか給料支払いさえ出し渋ったため、海戦の生き残り水兵たちに餓死者や病死者が続出した。ハワード卿はこれに憤怒し、女王エリザベス1世や宰相初代バーリー男爵ウィリアム・セシルに「水兵たちは祖国にこれほど貢献したのに何故飢えに苦しまねばならぬのか」と詰め寄っている[11][12]。しかし政府は出し惜しみをやめなかったので結局ハワード卿やドレークが身を削って私費で水兵たちにお金を配った[12]。