チャールズ・トムソン
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この項目では、アメリカ独立期の政治家について説明しています。イギリスの芸術家については「チャールズ・トムソン (芸術家)(英語版)」をご覧ください。

チャールズ・トムソン
Charles Thomson
チャールズ・トムソンの肖像画(ジョセフ・ライト(英語版)画)

大陸会議書記
任期
1774年9月5日 ? 1789年7月25日
前任者(新設)
後任者(廃止)

個人情報
生誕 (1729-11-29) 1729年11月29日
アイルランド ロンドンデリー県マグヘラ(英語版)
死没1824年8月16日(1824-08-16)(94歳)
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ローワー・メリオン
墓地ローレルヒル墓地(英語版)
配偶者Hannah Harrison (m. 1774)
署名

チャールズ・トムソン(Charles Thomson、1729年11月29日 - 1824年8月16日)は、アイルランド出身のアメリカ独立期のフィラデルフィアパトリオットのリーダーであり、大陸会議の全期間を通して書記を務めた。
若年期

トムソンは、アイルランドロンドンデリー州マグヘラ(英語版)で、スコットランド系の移民の子として生まれた[1][2]。1739年に母が亡くなると、父ジョン・トムソンはチャールズほか数人の子供を連れてイギリスの北米植民地に移住することにした。アメリカへの航海中に父が亡くなり、父の荷物は盗まれ、無一文になった兄弟たちはデラウェア植民地ニューキャッスルに到着した時点で離れ離れになった。チャールズは、ニューキャッスルの鍛冶屋の世話になり、ペンシルベニア植民地のニューロンドン(英語版)で教育を受けた。1750年にフィラデルフィア・アカデミーラテン語の教師となった。
政界でのキャリア妻ハンナ・ハリソン・トムソンの肖像画(ジョセフ・ライト画)

フレンチ・インディアン戦争中、トムソンはペンシルベニア植民地総督の対インディアン政策に反対した。1758年のイーストン条約(英語版)締結時には書記を務め、『デラウェアとシャワニーズのインディアンがイギリスの利益から離れた原因についての調査』(1759年)を執筆して、戦争の原因を植民地総督に求めた。トムソンは、反総督派のリーダーであるベンジャミン・フランクリンと同盟を結んでいたが、1765年印紙法をめぐる危機の中で政治的に決別した。トムソンは、フィラデルフィアの「自由の息子達」のリーダーとなった。1774年9月、著名なクエーカー教徒リチャード・ハリソンの娘、ハンナ・ハリソンと結婚した[3]。1750年頃にアメリカ哲学協会に入会した[4]アメリカ独立宣言の草稿を提出する様子(ジョン・トランブル画『独立宣言』)。議場中央のテーブルの右側で立っている人物がトムソン。

トムソンは、1770年代初頭の革命的危機のリーダーであった。ジョン・アダムズはトムソンを「フィラデルフィアのサミュエル・アダムズ」と呼んだ。トムソンは、大陸会議の全期間にわたって書記を務めた。大陸会議では、15年の間に多くの代表者が出入りしたが、トムソンは議論や決定事項の記録に尽力し、大陸会議の継続性をもたらした。1776年7月に発表された「独立宣言」の初版には、議会議長のジョン・ハンコックとともに、書記としてトムソンの名前が記載されている。ただし、書記であるため独立宣言への署名はしていない。トムソンが提案した国章の案。これを修正したものが採用された。

大陸会議におけるトムソンの書記としての役割は、事務的なものだけではなかった。伝記作家のボイド・シュレンサーによれば、トムソンは「外交問題の遂行に直接的な役割を果たしていた」という。フレッド・S・ロレイターは、トムソンは実質的に「アメリカの首相」であったと指摘している[5]。また、トムソンは、ウィリアム・バートン(英語版)と共同でアメリカ合衆国の国章をデザインしたことでも知られている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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