チャールズ・チャップリン・シニア
Charles Chaplin, Sr.
チャールズ・チャップリン・シニア(1885年)
生誕Charles Chaplin
1863年3月18日
イギリス、ロンドン、メリルボーン
死没 (1901-05-09) 1901年5月9日(38歳没)
イギリス、ロンドン、ランベス
配偶者ハンナ・チャップリン
子供チャールズ・チャップリン
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チャールズ・チャップリン・シニア(Charles Chaplin, Sr., 1863年3月18日 - 1901年5月9日)は、イギリスにおいて1890年代に、ミュージックホールを中心に活躍した舞台俳優。喜劇王チャールズ・チャップリン(以降チャーリー)の実父でもある。 チャールズ・チャップリン・シニアは1863年3月18日、ロンドン・メリルボーン区
生涯
前半生
結婚当時は芸事とは無縁であったチャールズではあったが、1886年にハンナが舞台女優としてデビューしたあとの1887年6月20日、チャールズはポリー・ヴァラエティ・シアターの舞台に立つが、これが俳優チャールズの確かな記録の最初である[6]。キャリア初期は物まねをメインに据えていたが、間もなく歌手として人気を得るようになる[6]。チャールズは舞台において女たらし、伊達男といったキザな役どころ、また家賃を催促する家主、泣き止まない赤ん坊、口うるさい義母や妻といった「家庭で起こりうるさまざまな問題」を抱えた亭主や父親の役を主に演じた[6]。チャールズが明確に成功した俳優の一人となったと言えるのは1890年ごろからで、フランシス・デイ・アンド・ハンター社
(英語版)が刊行する楽譜の表紙に1896年までの間に数多く登場している[6]。ダン・レーノ(英語版)やハーバート・キャンベル(英語版)といった当時の大スターと肩を並べたというわけではないが、俳優が楽譜の表紙に載せてもらえるというのは一種のステータスであり、チャールズは「有望株」とみなされて1890年中には『教会の鐘が鳴ったら』 (As the Church Bells Chime) 、『普段の生活』 (Everyday Life) および『そうだな、みんな』 (Eh, Boys?) の3曲の楽譜が出版された[7]。楽譜が出版された1890年には、チャールズはミュージックホールの一座の一人としてアメリカ合衆国を巡業し、8月から9月にかけてニューヨークのユニオン・スクエア・シアター(英語版)の舞台に立った[8]。また、『若くてかわいい少女』 (The Girl Was Young and Pretty) は、チャールズのヒットソングの一つとなっていた[9]。1897年ごろからは地方回りの俳優となっていたが、翌1898年にはレスターのニュー・エンパイア・パレス・シアターの公演で「レスターきっての人気者の華々しい帰還」と銘打たれた主演を張っていた[10]。記録上最後に確認されるチャールズの公演は、1900年9月にウォラム・グリーン(英語版)のグランビル・シアターでの舞台であった[11]。
私生活『若くてかわいい少女』の楽譜表紙
アメリカ巡業のころ、ハンナはチャールズの芸人仲間で、やはり人気の出ていたレオ・ドライデン(英語版)と不倫関係になった[12]。チャップリンの伝記を著した映画史家のデイヴィッド・ロビンソン(英語版)は、チャールズのアメリカ巡業が「結婚生活を決定的破局に導いた」と論じている[13]。このころからチャールズから家庭への仕送りは途絶えることとなり、ハンナは1892年8月31日にシドニーとチャーリーの異父弟にあたる3人目の男子ジョージ・ウィーラー、のちにチャーリーの片腕となるウィーラー・ドライデンを出産した[14]。以降、チャールズのいない家庭は貧しさにあえぐこととなり、やがてハンナは精神的な病気を患い、1896年6月の末にランベス[要曖昧さ回避]の矯正院に収容されることとなった[15]。ハンナが収容されたことにより、シドニーとチャーリーは、クロイドンやハンウェルにある孤児を対象とした学校に通うようになった[16]。ハンナの精神状態は波のようなもので、1898年9月には悪い兆しが見えて精神病院に入院させられていたものの、2か月後の11月には退院している[17]。
その間、チャールズは他の女性と住んでいたようだが、シドニーとチャーリーがハンウェルの学校への通学を開始するにあたり、救貧委員会の呼び出しを受けてシドニーとチャーリーを引き取るよう要請される[18]。ところが、チャールズは自分の子であるチャーリーはともかく人様の子であるシドニーの面倒は見られないと反論して救貧委員会との論戦を繰り広げ、そこにハンナも出頭してチャールズの不実を訴えれば、チャールズは逆にハンナの不倫関係を暴露するなど一騒動に発展してしまった[18]。最終的にはチャールズが週15シリングの扶養料を入れることが決定されたが、間もなく扶養料の納入は途絶えた[19]。1897年5月29日には、当時はパブを経営していた父スペンサーが亡くなり、遺書でチャールズに一定期間パブを経営したあとは売却して、その金で子どもを養育するよう記したが、チャールズはこの遺書を握りつぶした[20]。また、チャールズは扶養料の納入を依然踏み倒していたが、救貧委員会からの二度にわたる令状によって最初は兄スペンサー・チャップリン・ジュニアがチャールズに代わって未納分44ポンド8シリングを支払い、二度目はチャールズ自身が5ポンド6シリング3ペンスの未納扶養料を支払った[21]。 1898年7月の時点でチャールズはケニントン
晩年