グレートブリテン王国の政治家チャールズ・タウンゼンドCharles Townshend
生年月日1725年8月28日
没年月日 (1767-09-04) 1767年9月4日(42歳没)
所属政党ホイッグ党
称号枢密顧問官
親族第2代タウンゼンド子爵(祖父)、第3代タウンゼンド子爵(父)、初代タウンゼンド侯爵(兄)
商務委員会第一卿
内閣ビュート伯内閣
在任期間1763年3月1日 - 1763年4月20日
陸軍支払長官
チャールズ・タウンゼンド(英語: Charles Townshend、1725年8月28日 - 1767年9月4日)は、イギリスの政治家。
タウンゼンド子爵家のヤンガーサンとして生まれ、1747年にホイッグ党の庶民院議員に当選して政界入り。閣僚職を歴任し、とりわけ1766年から1767年にかけて財務大臣を務めたことで知られる。アメリカ植民地への支配と課税を強化するタウンゼンド諸法を制定し、アメリカ植民地人の反発を招いた。 1725年8月28日、第3代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンドとその妻オードリー(旧姓ハリソン)の間の次男として生まれる[1]。第4代タウンゼンド子爵を継承し、初代タウンゼンド侯爵に叙されるジョージ・タウンゼンドは兄である[2]。
経歴
政界入り後、第2代ハリファックス伯爵ジョージ・モンタギュー=ダンクに接近し、1748年にハリファックス伯が通商委員会第一卿(First Lord of Trade)に就任すると通商委員会の委員の一人に任じられた[1]。
1754年3月に首相ヘンリー・ペラムが死去した後の初代ニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズの内閣では海軍卿委員会(英語版)の委員の一人に選出された[1]。しかし翌1755年には下野し、ドイツ傭兵の問題でニューカッスル公爵内閣を批判した[1]。
1756年11月の第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ内閣では王室会計長官(英語版)に就任[1]。1757年4月には枢密顧問官に就任した[1]。
ジョン・ビング提督の銃殺刑には慎重な姿勢をとり、ウイリアム・ピット(大ピット)から軽蔑されたが、大ピットが主導した1757年から1761年にかけての第2次ニューカッスル公内閣でポストを維持し続けた[1]。
スペインとの戦争に反対したため、つづく第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアート内閣でも戦時大臣に留任。一時下野したが、その後すぐに政権復帰し、1763年3月には商務委員会第一卿に就任した[2]。しかし翌4月にジョージ・グレンヴィル内閣が成立すると国王ジョージ3世の手にキスすることを拒否して辞職した。国王はこれに怒り、二度と政府に参加しなくてよいとタウンゼンドに通告した[1]。
1765年5月に初代ホランド男爵ヘンリー・フォックスが陸軍支払長官(英語版)を辞職するとグレンヴィル首相の求めに応じて後任の陸軍支払長官に就任した。第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワース内閣でも留任した[1]。
つづいて1766年7月に成立した大ピット内閣では財務大臣に就任した。