グレートブリテン王国の政治家第2代タウンゼンド子爵
チャールズ・タウンゼンドCharles Townshend
2nd Viscount Townshend
第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンド
(ゴドフリー・ネラー画)
生年月日1674年4月18日
出生地 イングランド王国 ノーウォーク州・レイナム・ホール
第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンド(英語: Charles Townshend, 2nd Viscount Townshend, KG PC FRS、1674年4月18日 - 1738年6月21日)は、イギリスの貴族・政治家。
貴族院議員として政界入りし、義兄ロバート・ウォルポールとともにホイッグ党の政治家として活躍。1721年にウォルポール内閣が成立するとその主要閣僚となり、1724年からは外交政策を担当したが、後に外交方針を巡って首相ウォルポールと対立し、1730年に政界を退いた。引退後は蕪(カブ)の栽培を始め農業に専念、蕪のタウンゼンド(Turnip Townshend)との異名を取りイギリス農業革命の発展に一役買った。
生涯
生い立ち(英語版)とその後妻メアリー(旧姓アッシュ)の間の長男としてノーフォークのレイナム・ホール(英語版)に誕生した[1]。洗礼にあたり、国王チャールズ2世と王弟ヨーク公ジェームズ(後の国王ジェームズ2世)が名親を務めた[2]。
1687年12月の父の死により第2代タウンゼンド子爵の爵位を継承した[1]。イートン・カレッジで教育を受けた後、1691年春にケンブリッジ大学キングス・カレッジに進学した[3][4][5]。大学では学位を修得しなかった[2]。その後グランドツアーに出て[4]、帰国後の1697年12月3日に貴族院に初登院した[2]。
1698年にはロートンの初代ペラム男爵トマス・ペラムの娘エリザベスと最初の結婚をした[1]。
政界入りとアン女王時代青年期のタウンゼンド卿を描いた肖像画(ゴドフリー・ネラー画)
貴族院議員として政界に入った当初はトーリー党を支持していたが、やがてホイッグ党に鞍替えして積極的に政治に関わるようになった[5]。