チャールズ・コルソン
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チャールズ・コルソン

大統領特別補佐官(渉外)
任期
1969年11月6日 ? 1973年3月10日
大統領リチャード・ニクソン
後任者ウィリアム・J・バルーディ・Jr. (William J. Baroody, Jr.)

個人情報
生誕 (1931-10-16) 1931年10月16日
マサチューセッツ州ボストン
死没 (2012-04-21) 2012年4月21日(80歳没)
国籍アメリカ合衆国
政党共和党
出身校ブラウン大学
ジョージ・ワシントン大学
職業法曹, 作家, 活動家, アメリカ海兵隊, ブロガー
宗教バプテスト

“チャック”チャールズ・ウェンデル・コルソン(Charles "Chuck" Wendell Colson, 1931年10月16日 - 2012年4月21日)は、アメリカ合衆国キリスト教右派指導者・キリスト教伝道者評論家作家

1969年から1973年までリチャード・ニクソン大統領の特別補佐官を務め、ウォーターゲート事件を発端とする一連の事件で有罪となり収監されたことで知られる[1]。1974年にウォーターゲート事件への関与により大陪審に起訴された7人の大統領側近(いわゆる Watergate Seven =「ウォーターゲートの七人」)の一人であり、事件に直接関わる不法侵入や隠蔽工作では有罪を免れたものの、他の審理に関する司法妨害で有罪を認めた[2]。1973年にキリスト教に回心した後、1から3年の実刑判決(不定刑期)を受けアラバマ州マクスウェル刑務所に7か月間服役した[1]

後半生は刑務所の処遇や法制度を運動対象とした非営利の教役者組織プリズン・フェローシップ (Prison Fellowship) の設立とその活動に捧げられた。講演や作家活動のほか同団体のキリスト教世界観を広めるメディアとしてウィルバーフォース・フォーラム (Wilberforce Forum) を創設して代表を務め、自身のラジオ番組 "Breakpoint Commentary を放送した。またプリズン・フェローシップはジャスティス・フェローシップ (Justice Fellowship) を窓口に司法改革に関する働きかけも実施した[3]

15の名誉博士号を持ち、1993年には宗教関連で活躍した人物に贈られるテンプルトン賞を授与されている。同賞は高額の賞金で知られるが、コルソンは自身の活動報酬と同様、これをプリズン・フェローシップの資金とした。
青少年時代からホワイトハウス入りまで

早くに父(チャールズの祖父)を亡くし、働きつつ夜間学校に通っていた父ウェンデル・コルソン (Wendell Ball Colson) と、奔放で浪費癖のある母イネス (Inez Ducrow Colson) の間の一人息子として生まれる[4][5]。当時家庭はボストン北部の貧しい地域にあったが、父ウェンデルは大恐慌の期間も安定した職を得ていたためコルソン家の家計は安泰だった。ウェンデル・コルソンは結婚後も夜学に通い、12年間の学習を経て法曹および会計士の資格を取得している[5]

教育を重視した両親は転居などでいくつかの学校を経た後、1942年からはケンブリッジの有名私立校ブラウン・アンド・ニコルズ (Buckingham Browne & Nichols) にチャールズを通わせることを決定[5]。第二次世界大戦中であったこの年、11歳のコルソンはアメリカ陸軍ジープ購入資金を送るための募金キャンペーンを組織し地元紙に取り上げられている[5][6]。コルソンはこのころから夏期のアルバイトをして学費の家計への負担を助けていたと回想しているが[4][7]、両親は高額の学費を払いつつ、学年の進んだチャールズに自動車を与えることなどもあった[5]。学校では弁論や学校新聞の編集で高い評価を得、後者では広告掲載などにより1946年から1947年の学年でそれまでの三倍となる 1,500 ドルの収益を上げるなど才を見せた[5]。また1948年には当時のマサチューセッツ州知事ロバート・ブラッドフォード (Robert F. Bradford) 再選キャンペーンに参加した。

ブラウン・アンド・ニコルズ卒業の1949年にはハーバード大学の奨学金を得て同学に進むか、海軍予備役将校課程の奨学金を得てブラウン大学へ進学するかを奨学金の条件や学校環境などから検討し、父親が体調不良により水産会社副社長の職を失ったことなどもあり、より有利で信条に沿った判断として後者の道を選択した[4][7][5]。1953年に学士(優等)を取得、1959年にジョージ・ワシントン大学において法学博士(優等)を取得。また1953年から1955年にかけては海兵隊で兵役に就き大尉まで昇進、引き続き1956年にかけて海軍次官補補佐官 (Assistant to the Assistant Secretary of the Navy) を務めた。

1960年のマサチューセッツ州選出共和党員レヴェレット・サルトンストール (Leverett Saltonstall) の連邦上院選挙運動で活動し(成功裡に終わる)、1956年から1961年までは同議員の行政補佐官を務めている。1961年には法律事務所コルソン・アンド・モリン (Colson & Morin) を開設。事務所は前の証券取引委員会委員長エドワード・ガズビー (Edward Gadsby) および軍需企業レイセオン社の前の法律顧問ポール・ハンナ (Paul Hannah) の参加によりボストンおよびワシントンD.C.で急速に成長、1967年には名称をガズビー・アンド・ハンナ (Gadsby & Hannah) と改めている。コルソンは1969年1月、ホワイトハウスリチャード・ニクソンへ合流するために事務所を離れた。

1953年に結婚し三児をもうけるも、コルソンは政治と仕事にのめりこみ家庭を顧みず[4]、過度の飲酒や職場の同僚との不倫によって結婚生活は破綻し[8]、別居を経て1964年に離婚、同年に不倫相手であったアイルランド系カトリックの女性と再婚した[8]。このときコルソンは離婚がカトリック信仰と相容れないことを知り、カトリック式ではない簡略な式を挙げた[4][9]。後年には結婚に問題を抱える者に対し離婚の回避を強く訴えるようになっている[8]
ニクソン政権時代

1968年、大統領候補であったリチャード・ニクソンの重要事項委員会 (Key Issues Committee) の顧問を務めた後[10]、1969年11月6日に新大統領ニクソンの特別顧問 (Special Counsel to the President,White House Office of Public Engagement and Intergovernmental Affairs) に任じられた[10]。職務はホワイトハウスの政策決定プロセスに有力な利益団体を招き、様々な論点に関して彼らの支持を取り付けることであった。コルソンのオフィスは大統領の渉外部として機能し、労働組合退役軍人農家・資源保護論者・産業組織・市民組織など、政権に同調するほとんどあらゆるロビー団体との交渉を行なう場となり、コルソンは大統領との会見や情報提供を行なうことでホワイトハウスの窓口を拡大していった[10]。こうした渉外活動に加え、コルソンは特定の問題に関する法的な論点の指摘や、大統領の職務についての助言、招待客リストの提案など大統領の命により様々な任務を行なっている。この中には弾道弾迎撃ミサイル配備、ヴェトナム化 (Vietnamization, Role_of_United_States_in_the_Vietnam_Warを参照) 計画、所得再分配案など政権の重要事項に関するロビー活動も含まれていた[10]


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