チャールズ・イビー
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チャールズ・サミュエル・イビー

生誕1845年
カナダ
死没1925年
職業宣教師教師翻訳家
配偶者ネリー(Nellie)
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チャールズ・サミュエル・イビー(Charles Samuel Eby、1845年11月4日 - 1925年12月20日[1])は、カナダ・ウェスレアン・メソジスト教会明治時代初期に日本に派遣した宣教師であり、山梨県を中心に活躍した。

東京静岡甲府沼津の四箇所に伝道地を持った。
生涯

1845年(弘化2年)11月4日 父ヨナス・イビーと母ハンナの第四子としてカナダオンタリオ州に生まれる[2][3]。2歳の時、エローラに移住[3]

1865年(慶応元年)秋 ビクトリア大学 (トロント大学)(英語版)に入学[3]

1868年(慶応3年) ドイツのハッレ神学大学に留学し、2年間研究を続ける。その後ヨーロッパ各地を回りドイツ語とフランス語で説教を行う。[3]

1870年(明治3年)末 カナダに戻りヴィクトリア大学で研究を続ける[3]

1871年(明治4年)

5月 文学士(B・A)の学位取得[3]

6月 按手礼を受け牧師となる[3]

ネリー・ケッペル(Nellie Keppel)と結婚[3]

カナダのオンタリオ州プレストンに移住[3]

ドイツミッションの監督となる[3]

1876年(明治9年)

8月 日本派遣宣教師の募集に応じ、妻と長男長女を連れて日本へ出発[3]

9月8日 カナダ・メソジスト教会第2陣宣教師としてG・M・ミーチャムと共に横浜到着[3]

9月9日 第1陣宣教師(ジョージ・コクランデイヴィッドソン・マクドナルド)と第2陣宣教師がコクラン邸に集まり、部会を組織。コクランが部会長、イビーが書記に選ばれた。浅川 広湖山中笑・佐藤重道の3人が教職試補に挙げられた。また、日本メソヂスト教会と呼称することが決定した。[3]

最初は中村敬宇の小石川同人社に勤め、メソジストの信仰箇条や教会礼文などの翻訳事業に携わっていた。[4]

1877年(明治10年)

冬 長男がジフテリアにより死去[3]

7月13日 日本メソヂスト教会第二回部会を開き、杉山彦六(後の土屋彦六)・平岩愃保・細井省斎の3人が教職試補に採用した。この時、平岩より近藤喜則の「蒙軒塾(蒙軒学舎)」という私塾がクリスチャン講師を求めていることを語った[5]

7月20日 夏季休暇に蒙軒塾の英語講師をするため東京を出発[5]

7月23日 イビーと平岩が三島で合流。沼津のG・M・ミーチャム宣教師の家で日本語訳福音書を分けてもらう[5]

7月24日 山梨県巨摩郡睦合村南部に到着[5]

7月25日 住職のいない日蓮宗の寺を宿舎に選び、すぐにマタイの福音書の講義を開始。その日のうちに持参した福音書は全部なくなってしまい、静岡のマクドナルドの元へ使いを走らせた。[5]

7月29日 僧侶により日曜礼拝の妨害が行われる[5]


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