チャーリー浜
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チャーリー浜
本名西岡 正雄(にしおか まさお)
別名義浜 裕二(旧芸名)
生年月日 (1942-11-07)
1942年11月7日
没年月日 (2021-04-18) 2021年4月18日(78歳没)[1]
出身地 日本大阪府大阪市浪速区
言語日本語
師匠花紀京
事務所吉本興業
活動時期1960年 - 2021年
受賞歴
1991年 新語・流行語大賞
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チャーリー浜(チャーリーはま、本名:西岡 正雄(にしおか まさお)、旧姓:浜野(はまの)[2]1942年昭和17年〉11月7日 - 2021年令和3年〉4月18日[1])は、日本お笑いタレント喜劇俳優大阪府大阪市浪速区出身。

吉本新喜劇の座員として吉本興業に所属していた。
来歴

父親は広島県因島の出身で大阪に出て事業を成功させた[3]。実家は大阪日本橋の履物問屋。近畿大学附属高等学校を卒業。

1960年花登筐が主宰する「笑いの王国」に入り(当初は大村崑のそっくりさんとして売り出された)このころに花紀京に出会い花紀の父横山エンタツの自宅に居候で寝食を共にし芸を磨く。その後、「笑いの王国」の先輩で浜が師事していた花紀とともに、1962年6月に吉本興業に移籍。京都花月の「ポケットミュージカルス」に参加したのちに新喜劇に入団。花紀から厳しく鍛えられた。

吉本新喜劇では「アメリカかぶれのキザなお坊ちゃん」「キザなヤクザ」などの役どころが多く、大阪離れした奇異な言葉遣い(「…じゃあ?りませんか」など)で印象をつけた後、劇の最後に大阪弁をまくしたててオチをつける、というコントラストで人気を得た。

元は「浜裕二」を名乗っていたが、1989年に事務所が東京へ進出および「新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」の際、アメリカのテレビドラマ『チャーリーズ・エンジェル』にちなんで改名。「チャーリーズ・エンジェル」映画版の公開時には、「チャーリー浜ズ・エンジェル」として宣伝に参加した。

1990年1991年には2年連続でNHK紅白歌合戦に応援合戦で出演。

1991年、自身も出演したサントリー「ポケメシ」のテレビCMで、新喜劇で長く使われていたギャグ「…じゃあ?りませんか」が全国区のブームに。同年の第8回日本新語・流行語大賞(自由国民社)で年間大賞に選出され、同時進行で行われていた吉本興業の東京進出に大きく貢献、初の東京公演や全国ネットでも新喜劇が大きく取り上げられるなど、新喜劇ブームの火付け役となった。これをきっかけに、新喜劇では重鎮ポジションに昇格した。

師匠の花紀や弟弟子にあたる間寛平と同様、南海時代からの熱心なホークスファンとして知られ、南海時代にはなんばグランド花月の近くにあった大阪スタヂアムで開催されていたファン感謝デーへ毎年のように参加していた。また、1999年のダイエーホークス優勝時にはスポーツ新聞にファン代表の一人としてお祝いの言葉を寄稿した。

自宅でハリハリ鍋を食べていた際、酒に酔った浜がトイレへ行こうとして足でガスコンロの栓を外してしまい、そのままガス漏れで一時意識不明となって入院した。復帰後の舞台で、後遺症のため「ごめんください」「ありがとう」「こんにちは」がまともに言えず、自暴自棄で酒を飲み二日酔いで立った翌日の舞台で「ごめんください」を「ごめんくさい」と言い間違えてしまったことが、新ギャグ誕生・ブレイクのきっかけとなった[4]松本人志は『放送室』の中でこの「ごめんくさい」を好きな一発ギャグとして挙げ、まだ全国区のギャグとして認知される前の気の抜けた言い方がよいと語っている。

横山やすしオール巨人中田カウスと並ぶスパルタ吉本芸人として知られ、『アメトーーク!』の企画としておぎやはぎ小木博明が新喜劇の舞台に立った際にも他のメンバーが優しく指導している中で一人厳しく接していたほか、「山田花子をビンタした」「舞台中にセリフの順番を間違えた上ごまかそうとしたアドリブもすべってしまい客の失笑を買った若い芸人に『お客さんや、お客さんを笑わせるんや。お客さんから笑いをもろうてどうするん』『失敗は誰でもある。お客さんはこの1回しか舞台を見れないかもしれない。真剣勝負なんや』」と諭した、などの逸話を持つ[5]

このため、「他人には厳しいが、自分にはとことん甘い」と他の新喜劇メンバーからは批判されることが多かった。一方ファンサービスには非常に熱心で、街中などで声をかけられるとギャグを披露するなど、プライベート面での評判はよいといわれた[5]

晩年は新喜劇には1か月に1週から2週ほど出演するが、若手(「金の卵」組)並みに出演時間が短くなっていた。ストーリーの本筋にさほど影響しない役柄(主に村長や町内会長役)で、持ちギャグを披露して3分ほどで退場することがほとんどであった。2010年以降はNGKでの出演がほとんどなくなり、祇園花月や地方公演に出演するのみであった。これはNGKだと一日のうちに新喜劇の公演が多いときで4回あり、拘束される時間が長いことに対して不満があったためである[6]。以前のような新喜劇での活躍を期待する声が多く、もう少し舞台に積極的に出てはどうか、という批判が少なくなかった。

このような自ら舞台へ溶け込もうとしない姿勢については、積極的に若手と交流する桑原和男と意見が対立しているともいわれ、前出の「他人には厳しいが、自分にはとことん甘い」態度の表れと見なす者もいた。小籔千豊は『オールザッツ漫才2005』においてほぼ名指しに近い形(名前は伏せたが語尾に「じゃあ?りませんか」を付けていた)の浜批判ネタを行った。2005年12月20日に大阪のシアターBRAVA!で開かれた「ファン感謝祭」では、小籔進行によるフリートークコーナーで「もう帰っていいですかね」と発言。レイザーラモンHGに対して「お前はものすごいスピードで間違った方向に進んどるわ」と発言した際も、「面白いやん」と肯定する桑原と意見が対立した。ファン感謝祭以降、浜と桑原の共演機会はなくなり、2006年7月の公演で久々に両者が出演した際も、同時に舞台に立つシーンはなかった。

毎年の確定申告は大抵初日に一番乗りで行っており、「あなたどなた? 僕チャーリー」のギャグで職員がコケるシーンや、「確定申告は早めに済ませようじゃあ?りませんか」と締めくくるシーンが、関西圏のニュースで例年取り上げられていた。

前述のとおり、顔が大村崑に似ていたために、無名時代『頓馬天狗』の殺陣のシーンでは一部代役を行った経験があり、また最終回では、頓馬天狗に間違えられて捕らえられる者の役で、台詞付きで出演をしている。それが縁で後に舞台で「ザ・コンチャンズ」として共演したことがある。浜自身、大村を師匠と呼んで慕っており、その際に大村から受けた「下品なネタはするな」「シモネタはするな」「舞台で弱者を苛めて笑いを取るな」の教えを終始、頑なに守っていた。

最後の仕事は、2020年3月30日よしもと祇園花月で開催された配信イベント「チャーリー浜をもっと知ろう!」であった[7]

2020年7月に体調を崩す[7]2021年4月18日呼吸不全誤嚥性肺炎のため大阪府 大阪市内の病院で死去[1][8]。所属先の吉本興業によると、浜は脳梗塞を患って老人ホームに入所し、体調悪化で同年3月から入院したという。78歳没。
人物・逸話

自分の弟子以外の芸人に「師匠」と呼ばれることを非常に嫌い、呼ばれると「師匠言うな、馬鹿野郎!」などと激怒する。そのため「チャーリー」、「チャーリーさん」と呼ばれている
[9]間寛平からは、「浜兄さん」と呼ばれている。

祇園花月の楽屋の片隅に自分のスペースを持っており、そこからドアまでの動線に荷物を置くと室伏広治ばりの大声を張り上げて天井にぶち当たるぐらい投げる。また、楽屋の出入口に大量に並べられている靴で足の踏み場がないときは、靴を蹴散らすとのこと[9]


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