チャーリー・ゲーリンジャー
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チャーリー・ゲーリンジャー
Charlie Gehringer
1937年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ミシガン州
生年月日1903年5月11日
没年月日 (1993-01-21) 1993年1月21日(89歳没)
身長
体重5' 11" =約180.3 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション二塁手
プロ入り1924年
初出場1924年9月22日
最終出場1942年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


ミシガン大学

デトロイト・タイガース(1924 - 1942)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1949年
得票率85.03%
選出方法BBWAA[:en]選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート
タイガース球団副会長当時のゲーリンジャー(1957年)

チャールズ・レオナルド・ゲーリンジャー(Charles Leonard Gehringer, 1903年5月11日 - 1993年1月21日)は、1930年代アメリカメジャーリーグで活躍した選手。ポジションは二塁手ミシガン州生まれ。右投げ左打ち。愛称は"The Mechanical Man"(メカニカル・マン)。これは彼が寡黙であったことと、機械のように毎年コンスタントに成績を残したことに由来する。
経歴

ミシガン大学在学中だった1923年に、ゲーリンジャーの才能は当時のタイガースの強打者ボビー・ヴィーチ(英語版)によって見出された。ヴィーチはゲーリンジャーをネビン・フィールドに招きタイガースの練習に同行させる。当時選手兼任監督だったタイ・カッブもゲーリンジャーに強い印象を受け、タイガースのオーナーだったフランク・ネヴィンにゲーリンジャーとの契約を訴えた。大学を卒業後、1924年にタイガースと契約する。シーズン当初はクラスBのミシガン・オンタリオ・リーグでプレーしていたが、シーズン終盤に一度タイガースに昇格した。1925年はインターナショナルリーグに戻り、1926年からタイガースのレギュラーに定着する。

打撃の才能は、カッブがタイガースを去った1927年に開花する。この年に打率.317と110得点を記録すると、翌1928年には193安打、打率.320と更に成績を上げた。またこの年は守備でも二塁手最多の507もの補殺を記録した。1929年には打率を.339まで上げ、安打数215、二塁打数45、三塁打数19はいずれもリーグ最多となった。また盗塁も27を記録し、この年のリーグ盗塁王のタイトルを手にする。以後1932年の.298を除いて、毎年打率3割以上を記録。1932年は「初めはよく打球が飛んだので大きいのを狙うようになったけど、後はさっぱり。同時に打率の方も丸っきり上がらなくなってしまった」と本人が述べている[1]

打率3割を超えたシーズンは、実に13度に及んだ。守備でも安定した活躍を見せ、1929年から1941年の間で、二塁手の最高守備率を記録したことが実に7度にもなった。特に1933年からは5年続けて「打率.320以上、200安打、100得点」という打撃成績を残し、タイガースの1934年1935年のリーグ2連覇に貢献している。そして1937年に、打率.371で初の首位打者を獲得し、本塁打王のジョー・ディマジオを僅差で抑えアメリカンリーグのMVPにも選ばれた。

1934年に全米選抜チームの一員として、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグジミー・フォックスらと共に日本を訪れて日米野球に出場した際に沢村栄治による「全米軍のクリーンナップ4連続三振」を喫した一人にもなっている。また、翌1935年に日本選抜チームがアメリカ合衆国に遠征した時にも選抜チームの一員として対戦している。

最後のシーズンとなる1942年は選手兼任コーチを務め、また代打での出場を中心にしており、この年限りで現役を引退した。

1949年に投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出。その後は1951年から1953年までの間は古巣タイガースのゼネラルマネージャー (GM) を務めたが、本人には合わなかったらしく、曰くGMの仕事は「悪夢」だったという。GM退任後は球団副会長を務めるほか、自動車販売などの仕事をしながら、1953年から1990年まで野球殿堂のベテランズ委員会の選考委員を務めた。ゲーリンジャーの背番号「2」。
デトロイト・タイガースの永久欠番1983年指定。

1983年、タイガースはゲーリンジャーの在籍時の背番号『2』をハンク・グリーンバーグの『5』と共に永久欠番に指定した。

1993年ミシガン州にて死去。89歳。甥にアトランタ・ブレーブスなどで活躍し、通算3000奪三振を達成するなどで殿堂入りを果たした名投手ジョン・スモルツがいる。
プレースタイル

打撃ではウェイド・ボッグスのように器用に広角に打ち分けていた打者であり、通算打率.320を記録している。その打撃以上に評価されていたのが守備だった。1934年の日米野球に出場した三原脩はゲーリンジャーについて「難しいゴロがセンター前へ抜けようとする。ベースの後ろで追い付き、軽く一塁へスナップスローすると、日本の走者が楽々アウトになってしまう。あれには驚いた」と語り、「以後あれほどの二塁手は日米通じて見たことがなかった」と非常に高く評価していた[1]
詳細情報
年度別打撃成績

















































O
P
S

1924DET514132600061110--0--02--.462.462.462.923
1925820183300030010--2--00--.167.250.167.417
19261235174596212719171183489727--30--142--.277.322.399.721
192713357150811016129114224611789--52--231--.317.383.441.824
1928154691603108193291662727415913--69--622--.320.395.451.846
1929155717634131215451913337106271011--64--619--.339.405.532.936
193015470061014420147151632698191513--69--717--.330.404.534.938


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