チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道
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チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道の路線図

チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道(チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッドてつどう、英語: Charing Cross, Euston and Hampstead Railway、CCE&HR)は、1891年に設立された、ロンドンの大深度地下鉄会社である[注釈 1]。チューブと呼ばれる断面の小さなトンネルを使用した地下鉄の一路線で、ハムステッド・チューブ(英語: Hampstead tube)とも呼ばれた。資金集めに難航したことから、創立後10年以上着工されないままとなっていたが、1900年にはアメリカ人投資家チャールズ・ヤーキス率いるロンドン地下電気鉄道(英語:Underground Electric Railway of London、UERL)の一部となり、ヤーキスが主にイギリス国外で募った出資で建設資金を集めることに成功している。各種路線案が検討され、議会に認可を申請したが、ほとんどの案は不認可となり、結局ハムステッド・ヒース地下を通る路線案がヒースの環境に深刻な影響を与えると主張する地元住民の反対を押し切って採用された。

1907年、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道はチャリング・クロスを南端、アーチウェイ(英語版)及びゴルダーズ・グリーン(英語版)を北端とする7.67マイル (12.34 km)[1]の地下複線と16の駅で開業した。1914年から1920年代中期にかけてゴルダーズ・グリーンからエッジウェアへ、チャリング・クロスからテムズ川の下を横断してケニントン(英語版)まで延伸し、14.19マイル (22.84 km)[1]の路線に23駅をもつようになった。1920年代の延伸によりチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道の路線はシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道(英語: City and South London Railway、C&SLR)の路線と接続され、一体に運転されるようになった。両者の路線はのちにロンドン地下鉄ノーザン線となっている。

開業後1年もたたないうちにロンドン地下電気鉄道の経営陣はチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道などロンドン地下電気鉄道の傘下各社の乗客数見通しが過大であった事への対応を迫られるようになり、他の地下鉄会社との連携や、路線延伸による乗客誘致などの施策を打ったが資金難は改善せず、1933年にチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道は親会社であるロンドン地下電気鉄道とともに公営化された。チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道が建設した路線はこんにちロンドン地下鉄ノーザン線チャリング・クロス支線とハイ・バーネット支線の一部及びエッジウェア支線となっている。
創立
起源 1891年 - 1893年

1891年11月、ハムステッド・セントパンクラス・アンド・チャリングクロス鉄道(英語: Hampstead, St Pancras & Charing Cross Railway、HStP&CCR)と称する、ハムステッドのヒース・ストリートからチャリング・クロスのストランドを結ぶ地下鉄道建設の認可を求める個別的法律案(英語版)[注釈 2]議会に提出された[2]。この路線案はハムステッド・ハイ・ストリート、ロズリン・ヒル(英語版)、ヘイバーストック・ヒル、チョーク・ファーム・ロード(英語版)、ハムステッド・ロード、ユーストン・ロード(英語版)を通った後南に向きを変え、トテナム・コート・ロード(英語版)、チャリング・クロス・ロード(英語版)、キング・ウィリアム・ストリート(後のウィリアム4世ストリート)を通ってストランド近くのエイガー・ストリートに至り、ユーストン・ロードの北から東にドラモンド・ストリート(英語版)の下を通ってユーストンセント・パンクラス及びキングス・クロスに至る支線も併せ[3]、ハムステッド、ベルサイズ・パーク(英語版)、チョーク・ファーム(英語版)、カムデン・タウン、セイモア・ストリート(後にエヴァーショルト・ストリートの一部となる)、ユーストン・ロード、トテナム・コート・ロード、オックスフォード・ストリート、エイガー・ストリート、ユーストン、キングス・クロスに駅を設ける計画とされていた[3]。この時点では電気駆動とするか、ケーブルによる推進とするかの結論は出ていなかったが、ロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道(英語版)のチョーク・ファーム駅(英語版) (後のプリムローズ・ヒル駅)近くのチョーク・ファーム・ロード沿いにあった石炭集積場近くに発電所を設ける計画とされた[3]

ハムステッド・セントパンクラス・アンド・チャリングクロス鉄道の発案者たちは1890年11月に開業し、初年度から成功を収めた[注釈 3]世界初の大深度地下鉄であるシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道(英語: City and South London Railway、C&SLR)の成功に触発されたものであり、1892年の議会会期には他に3つの地下鉄会社の個別的法律案が提出された。統一された思想のもとでの審査を行うため、議会特別委員会(英語版)が設置されている。委員会は大深度地下鉄の建設及び運営に関する様々な問題に対する事例を取り上げ、トンネル直径、列車の動力、通行権の付与についての提言を行った。ユーストンから先の支線以外のハムステッド・セントパンクラス・アンド・チャリングクロス鉄道の路線について委員会は議会に個別的法律案を提出することを認め、社名の変更を経て1893年チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道法として女王裁可(英語版)を得た[5]
建設資金調達 1893年 - 1903年

チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道の認可は下りたものの、建設資金となる会社資本の調達は別の問題として残っていた。1892年の議会審議で認可されたベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道(英語: Baker Street and Waterloo Railway、BS&WR)、ウォータールー・アンド・シティ鉄道(英語: Waterloo and City Railway、W&CR)、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道(英語: Great Northern and City Railway、GN&CR)及び1891年に認可を得たセントラル・ロンドン鉄道(英語: Central London Railway、CLR)も同様に資金調達の問題に直面していた[注釈 4]が、この5社に加え、最初の大深度地下鉄であるシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道も路線延伸のための資金集めをこのころに行っていた[7]。ウォータールー・アンド・シティ鉄道は計画路線延長が短かったことに加え、ロンドン・アンド・サウスウェスタン鉄道(英語版)の支援と、配当保証により資金集めに成功していたが、これは唯一の例外であった。チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道及び他の後発4社は1890年代の大半を資金集めに費やしたが、金融市場の反応は薄いままだった[8]1894年4月に発行された額面10ポンドの177,600株のうち、わずか451株が売れたにとどまっていた[9]1900年にチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道を購入したアメリカ人投資家チャールズ・ヤーキス

この種の計画の通例にもれず、1893年法の土地収用と資金調達には期限が定められていた[注釈 5]


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