チャプルテペク城
Castillo de Chapultepec
北東から見たチャプルテペク城の外観
チャプルテペク城(チャプルテペクじょう、スペイン語: Castillo de Chapultepec)は、メキシコシティのチャプルテペクの丘の頂上にある宮殿。チャプルテペクとはナワトル語で「バッタの丘の場所」を意味する。歴史学者ジェームズ・F・エルトンはチャプルテペク城について「世界中の何ものも美しさにおいてこれを越える」[1][2]ことはないと書いた。チャプルテペク公園の入口に位置し、標高は2,325メートルである。北アメリカで現存している王宮は、チャプルテペク城とイトゥルビデ宮殿(英語版)だけである。
アステカ時代にはチャプルテペクの丘は聖地とされていた。チャプルテペク城はスペイン植民地時代に副王の夏の住居として造られた。メキシコの独立後、1841年から軍事学校、1864年から1867年までメキシコ第二帝政のマクシミリアンの皇宮、1884年から1935年までメキシコ大統領官邸、ほかに天文台などいくつかの用途に用いられたが、1940年代以降は国立歴史博物館(MNH)として使われている[3]。
植民地時代1880年ごろのチャプルテペク城
植民地時代、チャプルテペクの丘の頂上に修道院が建てられていたが、副王マティアス・デ・ガルベス (Matias de Galvez) はその跡に新しい宮殿を造ることを命じた[4]。しかし実際の建築がはじまったのはその子の副王ベルナルド・デ・ガルベスの時代にはいってからだった[5]。建設担当者はフランシスコ・バンビテイとマヌエル・アグスティン・マスカロだった[3][5]。しかし副王ベルナルドは1786年11月8日に急死した。
ベルナルドの没後、スペイン王室はそれまでにかかった費用の.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄5の価格で競売に出したが、買い手がつかなかった。最終的に1806年にメキシコシティ政府が購入した[3]。
独立後ニーニョス・エロエスの像
メキシコ独立戦争(1810-1821年)中と戦後しばらくの間、チャプルテペク城は見捨てられていた。1833年になって士官候補生の訓練のための軍事学校とすることが公布され、1843年に開校した[5]。この目的のためにカバイェロ・アルト (es:Caballero Alto) と呼ばれる塔の建設など、いくつかの改造が加えられた。
1847年9月13日、米墨戦争のチャプルテペクの戦いにおいてチャプルテペク城がアメリカ軍の手に落ちようとした時、6人の士官候補生(ニーニョス・エロエス)が命を落とした。城の入口の天井には彼らをたたえる大きな壁画が描かれている[6]。
アメリカ海兵隊の海兵隊讃歌はチャプルテペクの戦いとそれに続くメキシコシティ占領をたたえて「モンテズマの間から」で歌い出すが、これは史実と矛盾しており、チャプルテペク城はモクテスマ2世の時代より200年以上後にスペイン人の統治者によって建てられたものである。チャプルテペク城への突撃では多数の士官・下士官が戦死した[7]。
ここの軍事学校出身であるミゲル・ミラモンが大統領だった1859-1860年の間、チャプルテペク城は初めて臨時の大統領官邸として使用された[5]。このとき2階にいくつかの新しい部屋が造られた。
メキシコ第二帝政マクシミリアンの寝室