チャハル部
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この項目では、モンゴルの部族について説明しています。その他の用法については「チャハル (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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チャハル(299,000 (1987)[1])
居住地域
言語
モンゴル語チャハル方言
宗教
チベット仏教
関連する民族
他のモンゴル系民族

チャハル(モンゴル語: Цахар、.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}????? 転写:?aqar、漢語:察哈爾、英語: Chahars)は、近世以降のモンゴルの有力部族集団のひとつ。代以降にはそれらの遊牧する地域を指す名称としても用いられた。清朝モンゴル八旗蒙古・内属蒙古・外藩蒙古の三種に区分したが、チャハル部は、後述の「ブルニ親王の乱」以降、旧来の首長家が廃止され、清朝皇帝に直属する「内属蒙古」とされた。15世紀の東アジア諸国と北方諸民族。
歴史
成立

15世紀末、北元モンゴル(韃靼)はダヤン・ハーンによって、トゥメン(万人隊)と呼ばれる六つの大部族に再編成され、三トゥメンずつ、ゴビ砂漠の東北の「左翼」とゴビ砂漠の西南の「右翼」に分かれた。左翼を構成するトゥメンは、チャハル,ハルハウリヤンハンの三トゥメンで、筆頭のチャハル・トゥメンは、13世紀にクビライが兄モンケから与えられた京兆(西安)所領の後身で、代々クビライの母ソルコクタニ・ベキ(エシ・ハトン)の霊に奉仕した。クビライの即位後、子の安西王マンガラ、孫の安西王アナンダと相続され、泰定帝の代に安西王オルク・テムルに与えられたが、1332年、文宗トク・テムルによって取り潰された。1510年ダヤン・ハーンがモンゴルを再統一すると、ダヤン・ハーンの直轄領となった。[2][3]
ボディ・アラク・ハーン

ダヤン・ハーンが亡くなると、長男のトロ・ボラトがすでに亡くなっていたため、その長男であるボディが後継者に指名されていたが、まだ21歳と若かったため、ダヤン・ハーンの三男でボディの叔父であるバルス・ボラト晋王が右翼三トゥメンを背景に即位し、サイン・アラク・ハーンと称した。しかし、ボディは左翼三トゥメンの勢力を結集し、叔父に迫って退位させ、ボディ・アラク・ハーンとして即位した[4]1542年オルドス部・トゥメンのグン・ビリク・メルゲン晋王が亡くなると、ボディ・アラク・ハーンはその弟であるトゥメト・トゥメンのアルタンに、「トシェート・セチェン・ハーン」(補佐ハーン)の称号を授け、右翼の新しい指導者と認め、モンゴルで2番目のハーンという位置づけをした[5]
ダライスン・ゴデン・ハーン

1547年、ボディ・アラク・ハーンが亡くなると、その長男ダライスン・ハーンは、アルタン・ハーンの圧迫を避けて、チャハル部およびハルハ部の一部を引き連れて大興安嶺山脈の東側に移動し、遼河の上流域に遊牧地を移した[6]1551年、ダライスン・ハーンはアルタン・ハーンと和睦し、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル:チンギス・カン廟)の神前で正式にハーンに即位することができ、ダライスン・ゴデン・ハーンとなった。ダライスン・ゴデン・ハーンはその代償として、代以来の名誉ある称号「司徒」をアルタンに授け[7]、アルタン・ハーンが「ゲゲン・ハーン」と称することを承認した。[8]
リンダン・フトゥクト・ハーン

その後、チャハル部は高原東部から東北平原(満州)にかけて最大の勢力であり続け、チベット仏教界とも親密な関係を築いた。17世紀に入るとリンダン・フトゥクト・ハーンは自らの下にモンゴル諸部族を再統一しようと考えたが、それまで対等な関係で同盟を結んでいたにすぎなかったモンゴル諸部は彼の強権を嫌い、ホルチン部においては、いち早く満洲後金国主ヌルハチと同盟し、その息子ホンタイジ率いる後金軍が内ハルハを支配下に入れたのち、熱河まで進出する事態となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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