チャック・クライン
[Wikipedia|▼Menu]

チャック・クライン
Chuck Klein
1936年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地インディアナ州インディアナポリス
生年月日1904年10月7日
没年月日 (1958-03-28) 1958年3月28日(53歳没)
身長
体重6' 0" =約182.9 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション右翼手
初出場1928年7月30日
最終出場1944年6月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


フィラデルフィア・フィリーズ (1928 - 1933)

シカゴ・カブス (1934 - 1936)

フィラデルフィア・フィリーズ (1936 - 1939)

ピッツバーグ・パイレーツ (1939)

フィラデルフィア・フィリーズ (1940 - 1944)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1980年
選出方法ベテランズ委員会選出
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

チャールズ・ハーバート・クライン(Charles Herbert Klein、 1904年10月7日 - 1958年3月28日[1]は、主に1930年代に活躍したアメリカメジャーリーグの野球選手。ポジションは右翼手インディアナ州インディアナポリス生まれ。右投げ左打ち。ニックネームは"Hoosier Hammer"(インディアナ・ハマー)。1933年ナショナルリーグ三冠王になった強打者。MLBの歴史上2人しかいない全打撃タイトル(打率本塁打打点盗塁)獲得経験のある選手(もう1人はタイ・カッブ)。
経歴

1928年にフィリーズでデビュー。翌年1929年には219安打、43本塁打、打率.356をマークし、初の本塁打王となる。

1930年は250安打、打率.386をマークした年だったが、同じ年にニューヨーク・ジャイアンツビル・テリーが254安打、打率.401を記録し、両部門ともタイトルを手にすることができなかった。またこの年は170打点を挙げたが、こちらはハック・ウィルソンが191打点(現在のメジャーリーグ記録)を達成していた。その後も1931年には初の打点王(121打点)、と得点王(121得点)、1932年は38本塁打で本塁打王になると共に、20盗塁でリーグ盗塁王も獲得、その年の最優秀選手になった。本塁打王と盗塁王を同時に獲得したのは、彼とタイ・カッブジミー・シェッカードの3人だけである。

1933年には28本塁打、120打点、打率.368とし、ロジャース・ホーンスビー以来の三冠王となる。この年は他にも最多安打、最多二塁打、出塁率1位、長打率1位 (.602) などに輝いたものの、その年の最優秀選手にはカール・ハッベルが選ばれた。

1934年シカゴ・カブスに移籍するものの、フィリーズ時代のような殆ど全試合の出場はさせてもらえず、打率も3割前後にとどまった。カブスには2年と少ししか在籍せず、1936年のシーズン中に再びフィリーズに戻った。フィリーズ復帰後の1936年7月10日、クラインはリーグ史上初となる1試合4本塁打を放っている。

この間の1938年にフィリーズはこれまでの本拠地ベイカー・ボウルが老朽化によりシャイブ・パークに移転したが、狭隘なベイカー・ボウルから広いシャイブ・パークへの移転がクラインの成績に影響を与えたらしく、移転後は打率を始めとした成績が落ち、1940年に通算2,000本安打を達成したもののそれ以降は時折代打として出る程度になり、1944年を最後に現役を引退した。

引退後は一時期フィラデルフィアでバーを開いていたが、飲酒癖がもとによる脳卒中を患い、左足の麻痺も発症したため、1947年に故郷インディアナに帰郷して自身の身内の元で療養生活を送ったが、1958年3月28日、53歳で死去した。

死後、1980年ベテランズ委員会の選考によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。クラインのフィリーズ在籍当時のチームロゴ「P」。
フィラデルフィア・フィリーズの永久欠番扱いとして2001年指定。

2001年、クラインはフィリーズの永久欠番選手に指定されたが、デビュー当時はまだ背番号導入前で、その後1932年よりフィリーズは背番号を導入したが、クラインは毎シーズンのように背番号を変えていた(後述)ため、番号の代わりに、デビュー当時のフィリーズのチームロゴ(オールド・イングリッシュ字体の"P")を欠番代わりとしている。
1000安打到達最速記録

クラインは683試合目で通算1000安打に到達しており、これは現在でもメジャーリーグの最速記録である。2005年イチローがこの記録に迫った(696試合目:歴代3位)ことで、日本でも多く紹介された。
クラインの背番号

前述の通り、1932年にフィリーズが背番号を導入した後も、クラインは自身の背番号を一定せず、毎シーズンのように背番号を変えていた[2]。使用した番号は10個にも及び、番号変更は12回も行った(『3』と『26』を2回使用)。このうちフィリーズ在籍時につけていた『1』、『32』、『36』は後にフィリーズの後輩にあたる選手(リッチー・アシュバーンスティーブ・カールトンロビン・ロバーツ)の活躍により、それぞれの永久欠番となっている。

太字はフィリーズ在籍時の背番号。

3(1932年?1933年)

6(1934年・カブス在籍)

4(1935年?1936年・カブス在籍)

32(1936年)

36(1936年?1937年)

1(1938年)

26(1939年)

14(1939年・パイレーツ在籍)

29(1940年?1941年)

3(1942年)

8(1943年)

26(1944年)

詳細情報
年度別打撃成績


















































次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:129 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef