チャコ文化国立歴史公園
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チャコ文化
アメリカ合衆国

プエブロ・ボニート
英名Chaco Culture
仏名La culture Chaco
登録区分文化遺産
登録基準(3)
登録年1987年
備考2006年に現在の名称に変更。それ以前の登録名は「チャコ文化国立歴史公園」。
公式サイト世界遺産センター(英語)
使用方法表示

Chaco Culture National Historical Park
IUCNカテゴリV(景観保護地域)

地域アメリカ合衆国ニューメキシコ州
サンファン郡マッキンリー郡
最寄りファーミントン
座標北緯36度3分30秒 西経107度57分32秒 / 北緯36.05833度 西経107.95889度 / 36.05833; -107.95889座標: 北緯36度3分30秒 西経107度57分32秒 / 北緯36.05833度 西経107.95889度 / 36.05833; -107.95889
面積137.49km2
創立日1907年3月11日
訪問者数45,539人(2005年)
運営組織国立公園局
世界遺産1987年

チャコ文化国立歴史公園(チャコぶんかこくりつれきしこうえん、Chaco Culture National Historical Park)は、アメリカ合衆国の国立歴史公園。チャコ文化の登録名でユネスコ世界遺産に登録されている。アメリカ南西部地方で最もプエブロ文化の遺跡が濃密に集中している地域である。
目次

1 概要

2 地理

3 気候

4 チャコ・キャニオンの遺跡群と調査史

5 歴史公園の運営

6 遺跡

7 廃墟

8 ギャラリー

9 世界遺産

9.1 登録基準


10 脚注

11 参考文献

概要

チャコ国立歴史公園は、ニューメキシコ州の北西、アルバカーキとファーミングトンの間にある涸れた険しい渓谷の中にある。メキシコ北部にある古代遺跡を含めてチャコ国立歴史公園は、アメリカ合衆国でもっとも魅力的な文化的歴史的遺産のある区域として保存措置がとられている。

チャコ・キャニオンは、紀元後900年から1150年にかけてプエブロ文化の最大の中心地であった。チャコ・キャニオンの人々は、砂岩を切り出し、材木を遠方から運んできて19世紀になるまで北米で最も壮大な建物をもつ15か所の遺跡を築いた。

チャコ・キャニオンで天体観測[1]が行われていたことは、Fajada ButteでみられるSun Dagger(太陽の短刀)などから理解できる。これは、春分秋分に小さな同心円の中央、夏至に大きな同心円の中央、冬至に同心円の両脇といった決まった位置に短刀のような楔型に日光を映す岩絵が刻まれている[2]ものである。チャコ・キャニオンの建物の多くは、何百年、何世代にもわたる天体観測の技術的な蓄積によって、太陽や月の周期が設計に取り込まれてきたのかもしれない。

1130年から始まる50年に及ぶ旱魃という気候の変化によってチャコ・キャニオンの人々は、ほかの場所へ移住してしまい、結果的に彼らが築いたプエブロの集落は放棄されることになった。フォーコーナーズ地方の乾燥した厳しい環境のなかにあるにもかかわらず、チャコ・キャニオンの遺跡群は、旅行者によって傷められるおそれがでてきたことから、公式にFajada Butteは閉鎖されることになった。チャコ・キャニオンの遺跡群は、ホピ族やプエブロ族にとって神聖な先祖の地であって、歴史上の出来事としてのチャコ・キャニオンからの移住やこの地に対する精神的なつながりは、口承伝承によって語り継がれている。公園内の遺跡を保護する活動は、プエブロ族の信仰との葛藤とからんでいるにもかかわらず、民族の遺産を継承する人々は、自分たちの知識を提供し、チャコ・キャニオンの文化遺産に敬意を払うことを国立公園局と分ち合いつつ活動している。
地理 チャコ・キャニオンの南西端付近にあるFajada Butteと Fajada 渓谷を襲う夏季の雷雨。Fajada Butteのメサの頂点付近には、大小の同心円状の岩絵があって、岩の隙間から日光がくさび状に照らし、Sun Dagger(太陽の短刀)と呼ばれる。

チャコ・キャニオンは、サン・ファン盆地の中にあり、壮大なコロラド高原上に位置する。チャコ・キャニオンの周りには、西にChuska山地、北にサン・ファン山地、東にサン・ペドロ山地があって囲まれている。古代のチャコ・キャニオンの人々は、うっそうと茂るオーク、ピニョンと呼ばれる松の一種、ポンデローサ松の森林から、木材や食料などの資源を確保していた。

チャコ・キャニオンの渓谷自体は砂丘や周囲に連なる山々の尾根に囲まれ、おおむね北西から南東に流れている。また渓谷の周囲には、頂部がたいらなメサと呼ばれる巨大な岩山が点在している。Rinconsとして知られる南西の崖面は大きく開いている。崖面と崖面の間の地形はろうと状になっていて、風雨にさらされ、浸食のスピードがはやい。

主要なチャコ・キャニオンの集落、たとえば、プエブロ・ボニート、ヌエボ・アルト、キン・クレトソは標高1,890mから1,963mの間に位置する。チャコ・キャニオンの谷底は、二つに分けられ、北東に向かって1kmにつき6mというゆるやかな角度で降っていく。また、ほんのわずかであってひんぱんなものではないが、小川の流れがみられる。

チャコ・キャニオンの最大の帯水層は、非常に深い場所にあるために古代のチャコ・キャニオンの人々がそのような地下水を掘り出すのは不可能であった。ほんの僅かの小さくて浅い所にある地下水から湧き出る泉から水を確保してきた。地表で確保できる水は、一時的な豪雨によっていくつかの小川を流れていく水以外は、事実上皆無に等しい。
気候 冬季のFajada Butte遺跡の景観。年平均3回か4回の吹雪がある。

非常に乾いた灌木地か砂漠に近いステップ、涸れた渓谷のような乾燥した土地は、年平均200ミリしか雨が降らない。一番多い時でも231.1ミリという記録である。チャコ・キャニオンは、南や西のほうにある山脈のふもとにある。そしてそれはいわゆる「雨の陰」といって山脈の風下側にあたり、著しく降水量が少ない地域にあたり、結果として湿り気も非常にすくなくなる。四季は一応存在し、7月から9月の間が最も降水量が多くなり、5月から6月ごろがもっとも乾燥する。チャコ・キャニオンの周囲にある山脈を登っていく豪雨をもたらす雨雲は夏と冬に標高の高い場所で雨を絞り切るかのように降らせるため、風下側あたるチャコ・キャニオンでは、雨が極端に少ないということになる。ときどき北回帰線周辺の熱帯性気候の範囲が北側にずれることがあり、数年間にわたって異常に降雨ガ少なくなる。

チャコ・キャニオンは、気温変化が激しく、氷点下39度から摂氏39度という60度を超える気温変化がある。チャコ・キャニオンで霜が降りない日は150日に満たない。この地方の気候はよく雨が降る年がある一方で極端な日照りで雨が降らないこともある。チャコ・キャニオンは南太平洋のエル・ニーニョ現象の影響をもろに受けて気候が極端に移りかわる。
チャコ・キャニオンの遺跡群と調査史 アナサジ文化の遺跡分布図

考古学者は、サン・ファン盆地に最初に人が訪れたのは、古期の狩猟採集民であると考える。クローヴィス尖頭器をもつ移動性の狩猟民は紀元前1万年前後からかわるがわる南西部地方を訪れた。紀元前900年にアトラトル洞窟に人が住んでいたことが明らかになっている。チャコ・キャニオンに住んだ古期の人々の足跡は、そういった狩猟民の遺跡よりも少なくわずかしか確認されていない。紀元490年になると古期の人々の子孫は、いわゆるバスケットメーカーとしてチャコ・キャニオンで農耕を続け、シャービックエスチー(Shabik’eshchee)遺跡やそのほかの集落で竪穴式住居に住んでいた。

バスケットメーカー文化の時代には、チャコ・キャニオンの人口はわずかであったが、紀元800年ごろからさらに発展し、集落が三日月状に造られ、4つから5つの居住用に用いられた部屋ごとに組み合わされるようにキヴァという半地下式の宗教的な儀式を行うための大きめな空間が設けられた。こういった構造はプエブロ文化の初期に見られる特徴である。850年代になると古代プエブロ人の人口は増えて、急速に居住範囲はひろがり、砂岩を用いたプエブロの集落をつくって集住していくようになる。このころのプエブロに住んだ人々をナバホ族によって借用されたユト語族の概念では、「古代の人々」ないし「敵の先祖」という意味の「アナサジ」という名で知られるようになる。

10世紀以降、チャコ・キャニオンの渓谷全体にわたるような規模のトルコ石の採取と交易がおこなわれるようになった。この時期に壮大なプエブロ・ボニートの最も古い部分が大きく湾曲する北壁沿いに50か所に及ぶ部屋がつくられた。

チャコ・キャニオンの特徴的な集住システムが崩壊し始めたのは、1140年頃からであった。


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