6世紀中頃 - 1195年頃
首都アジュメール、デリー
元首等
xxxx年 - xxxx年不明
変遷
成立6世紀頃
滅亡1195年頃
チャーハマーナ朝(チャーハマーナちょう、英語:Chahamana dynasty)は、6世紀半ばから12世紀末にかけて、北インドのラージャスターン地方に存在したヒンドゥー王朝。ラージプートの王朝でもある。チャウハーン朝(Chauhan dynasty)とも呼ばれる。首都はアジュメール、デリー。
歴史によって、チャーハマーナ朝がラージャスターン地方に創始された。とはいえ、その当時はまだラージャスターンの小国で、8世紀にプラティーハーラ朝が成立すると、その支配下にはいった。
この王朝はどうやら単一の王朝ではなく、ラージャスターン地方やグジャラート地方の各地に小勢力が散在していたと考えられており、ラージャスターン中央部に存在したシャーカンバリー(サーンバル
)を拠点とした一族がプラティーハーラ朝で封臣(サーマンタ)として頭角をあらわした。チャーハマーナ朝は勢力を拡大し、同様に独立したマールワーのパラマーラ朝と同盟を結び、グジャラートのチャウルキヤ朝と抗争するようになった[1]。やがて、10世紀半ばにデカンのラーシュトラクータ朝が北インドに侵攻すると、プラティーハーラ朝の全軍が防衛にあてられたのを見て反乱を起こし、同世紀後半のシンハラージャのとき、ラージャスターンで独立を達成した。また、11世紀初頭にアフガニスタンのイスラーム王朝であるガズナ朝が攻めてくると、ラージプートの王朝と連合して対抗したが、1018年に主家であったプラティーハーラ朝は事実上滅亡した。12世紀初頭、アジャヤラージャの治世、チャーハマーナ朝は堅牢な山城のある都市アジュメール(アジャヤメールとも)に拠点を移し、アフガニスタンのガズナ朝とグジャラートのチャウルキヤ朝に備えた[1]。1119年、ガズナ朝によって拠点の一つナーガウルがガズナ朝によって占拠された。だが、アジャヤラージャの息子アルノーラージャがアジュメールの郊外でガズナ軍を撃退し、領土も同時に回復した[1]。