チャイニーズタイペイ
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チャイニーズタイペイ
チャイニーズタイペイオリンピック委員会のエンブレム
各種表記
繁体字:中華臺北/中華台北
簡体字:中?台北
?音:Zh?nghua Taib?i
日本語漢音読み:ちゅうかたいほく
日本語慣用読み:ちゅうかタイペイ
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チャイニーズタイペイ(英語: Chinese Taipei、フランス語: Taipei chinois、繁体字中国語: 中華台北、IOCコード:TPE)は、オリンピックをはじめとした国際スポーツや国際機関などの国際的な場で中華民国台湾)を示す呼称として用いられる。国際連合における中国の代表権を失い、事実上追放されるなど外交的孤立に追い込まれた1970年代以降、同国が国際社会に参加するため、妥協として主権国家承認問題を棚上げしたもの。

中華民国政府の「中華民国が中国全土を代表する国家である」という建前により「台湾」の名称を使えない一方で、実際には中華民国が中国全土を実効支配していないことなどから「中華民国」という名称も国際社会で受け入れられなくなったこと、中華人民共和国が主張する「一つの中国」論との関係により「中華民国」と「台湾」のいずれの名称も用いることができないことが背景にある。

最初にこの名称が使われたのは、台北市に本部を置く台湾の国内オリンピック委員会(NOC)「中華奧林匹克委員會」の英文名称とオリンピックの参加名義としてである。
オリンピック方式

「中華民国」としてではなく「Chinese Taipei(中華台北)」名義を用い、国旗である青天白日満地紅旗を使用せずに国際的な場に参画することを奧會模式(オリンピック方式またはオリンピック委員会方式、Olympic model, Olympic Protocol[1])と称する。オリンピックでは国旗の代わりにオリンピック委員会旗を使用する。入場などの順序はNOC名簿の排列とIOCコード「TPE」により「T」グループとして扱う[2][1]。これにより「C」グループに属する中華人民共和国とは離れる。

その後、アジア太平洋経済協力(APEC)、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)へのオブザーバー参加、世界貿易機関(WTO)での加入名義の略称、経済協力開発機構(OECD)の一部委員会への参加など、国際機関(政府間組織)でも用いられるようになった。オリンピック以外の国際競技大会や国際的な民間組織でも、オリンピック方式で参加している事例がある。
オリンピック委員会旗チャイニーズタイペイオリンピック委員会の旗

チャイニーズタイペイオリンピック委員会旗(中華奧林匹克委員會旗)は、その意匠から梅花旗と呼ばれることがあり、オリンピックアジア競技大会に中華民国の選手が「チャイニーズタイペイ(中華台北)代表」として出場する際に中華民国の国旗の代わりに使用、掲揚される。

白地の旗で、国旗に使われる青白赤で中華民国の国花(中華民國國花)であるをかたどり、その中に中華民国の国章(青天白日の紋章)とオリンピックシンボルである五輪をあしらったオリンピック委員会のエンブレムを中央に配置している。大会の表彰式などでは、「チャイニーズタイペイ・オリンピック委員会歌」(中華民国国旗歌の歌詞を改めたもの)が演奏される。

チャイニーズタイペイオリンピック委員会旗は、オリンピックと直接関係しない大会でも使用される場合がある。バレーボール世界選手権ワールドベースボールクラシックなどの例がある。
総合競技大会・個別競技の統括団体の旗

パラリンピックデフリンピックユニバーシアードといった特定の人々のための総合競技大会や、個別競技の統括団体・代表チームの旗・エンブレムも、多くがオリンピック委員会旗と共通するデザイン要素を有している。チャイニーズタイペイオリンピック委員会ウェブサイト内のページ[3]に各競技の統括団体のエンブレムとそれぞれのサイトへのリンクがまとめられている。

中華民國殘障運動體育總會(チャイニーズタイペイパラリンピック委員会)の旗

中華民國聽障者體育運動協會(中華民国ろう者スポーツ協会)の旗(デフリンピック

中華民國大專院校體育總會(チャイニーズタイペイ大学スポーツ連盟)の旗(ユニバーシアード

2006年まで使用された中華民国サッカー協会の旗

中華民國排球協會(中華民国バレーボール協会)の旗

チャイニーズタイペイeスポーツ代表チームの旗

オリンピックにおける両岸問題

中華民国におけるオリンピック委員会の歴史は、1922年上海に創設された「中華業余運動連合会(中華業餘運動聯合會=中華アマチュアスポーツ連合会)」が、同年パリで行われた国際オリンピック委員会(IOC)年次総会でNOC「中国オリンピック委員会(中國奧林匹克委員會、China Olympic Committee)」として認められたことに始まる。この時聯合會主席で外相などの要職を歴任した王正廷がIOC委員に就任した。1924年に中華業余運動連合会は中華全国体育協進会に改組した。1932年ロサンゼルス1936年ベルリン1948年ロンドンの3大会では、中国代表選手はこの体制の下で参加した。

国共内戦の結果、1949年中国大陸中華人民共和国が成立し、中華民国政府は台湾に移転した1951年に「中国オリンピック委員会」は台湾に移転したと通知され、IOCに認められた。中華人民共和国の首都・北京には中華全国体育総会が設立され、「中国オリンピック委員会」としての活動を始めた。1952年ヘルシンキオリンピックでは、中華民国・中華人民共和国双方の参加が決まったが、中華民国側がこれに反発して参加を取りやめた。開催国フィンランド1950年1月13日に中華人民共和国を国家承認している[4]

1954年にはアテネで開かれたIOC総会で2つの「中国オリンピック委員会」がともに承認された。1956年メルボルンオリンピックでは、中華民国が国旗(青天白日満地紅旗)を掲げて参加することに抗議して、中華人民共和国が直前に参加を取りやめた。1958年には北京のオリンピック委員会が「二つの中国」を作る動きに抗議するとして、IOCと複数の主要な国際競技連盟(IF)を脱退、関係断絶を宣言した。IOCに不満を持つ国々と共に独自に新興国競技大会も行った。

1959年5月28日IOC総会で、台北のオリンピック委員会について全中国を代表・統括していないとして、「中国オリンピック委員会」名義で承認し続けることはできないとの決議が採択された。台北のオリンピック委員会はこれを受けて即座に名称を「中華民国オリンピック委員会(中華民國奧林匹克委員會、Republic of China Olympic Committee)」と改め、IOCに申請した。


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