チャイコフスキー
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ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
Пётр Ильич Чайковский

基本情報
出生名ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
Пётр Ильич Чайковский
生誕 (1840-05-07) 1840年5月7日
ロシア帝国ヴォトキンスク
死没 (1893-11-06) 1893年11月6日(53歳没)
ロシア帝国サンクトペテルブルク
学歴ペテルブルク音楽院
ジャンル交響曲バレエ音楽協奏曲など
職業作曲家
活動期間1866年 - 1893年
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ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(: Пётр Ильич Чайковский [?p??tr ?l??jit? t??j?kofsk??j] 発音を聞く[ヘルプ/ファイル];ラテン文字表記の例:PyotrあるいはPeter Ilyich Tchaikovsky、1840年5月7日ユリウス暦では4月25日) - 1893年11月6日(ユリウス暦10月25日))は、ロシア作曲家

叙情的で流麗、メランコリックな旋律と和声、華やかで効果的なオーケストレーションなどから、クラシック音楽の中でも人気の高い作曲家となっている。作品は多岐にわたるが、とりわけ後期の交響曲や、バレエ音楽協奏曲などが愛好されているほか、管弦楽曲、オペラ、室内楽曲、独奏曲にも人気作がある。伝記作家たちの多くは、チャイコフスキーが同性愛者であったことに同意している[1]
生涯

チャイコフスキーは1840年5月7日、ウラル地方ヴォトキンスクで、鉱山技師(工場長)イリヤ・ペトローヴィチ・チャイコフスキーの次男として生まれた。チャイコフスキーという姓は祖父ピョートル・フョードロヴィチの代にチャイカ(Чайка: 伝統的なウクライナの姓で、カモメを意味する)から改めたものであり、家系は現在のポルタヴァ州に領地を持っていたウクライナ・コサックのチャイカ家に出自を持つ[2]。また、チャイコフスキーの祖先には軍に関係のある人が多い。父親のイリヤは軍の中佐として鉱山を指揮した[3]。祖父のピョートル・フョードロヴィチは軍で軍医の助手をし、のちにウドムルト共和国グラゾフで市長を務めた。曽祖父のフュードル・チャイカはサポロージエ・コサックの生まれであり[4]、1709年の北方戦争におけるポルタヴァの戦いで、ピョートル1世のもとで活躍し、有名になった[5][5]。母のアレクサンドリアは、イリヤの2人目の妻である。フランスに出自を持ち、イリヤの18歳年下である[6]。父はフルートを吹き、母はピアノを弾き歌を歌うなど、音楽的な家庭であった[7]。しかし、いずれの祖先にも職業音楽家はいなかった[8]。チャイコフスキーには6人の兄弟がいたが、とりわけ親しかったのは妹のアレクサンドラと双子の弟アナトーリーとモデストだった。アレクサンドラの子どものウラディーミル・ダヴィドフは、のちに作曲家となり、チャイコフスキーと親しくなった。チャイコフスキーはダヴィドフのことを「ボブ」と呼んでいた[9]

1844年、チャイコフスキー家は、兄のニコライと従妹のために、家庭教師にフランス人のファンニ・デュルバッハを雇う。チャイコフスキーはまだ4歳だったが、兄と共にデュルバッハに学び、6歳の頃にはドイツ語とフランス語を流暢に話せるようになった[10]。チャイコフスキーは彼女に親しみを抱き、チャイコフスキーにとってデュルバッハは、母に代わる精神の拠り所だったといわれる[11]。デュルバッハはチャイコフスキー幼年時代の話をよく知る貴重な人物であり、彼の感受性の強さや音楽への熱中を伝えている[12]ヴォトキンスクにあるチャイコフスキーの生家。現在ではチャイコフスキー博物館となっている

チャイコフスキーは家にあったオーケストリオンで、モーツァルト、ロッシーニ、ドニゼッティなどの音楽に夢中になった。5歳から家庭教師マリア・パリチコワの手ほどきによりピアノを習い始めて音楽的才能を示したが、両親には息子を音楽家にする意志はなく、1850年10月(10歳)でサンクトペテルブルクの法律学校に寄宿生として入学させた[13][7]。同年7月にはペテルブルクにてグリンカのオペラ『皇帝に捧げた命』を鑑賞している。1852年の秋、詩人V・オリホフスキーの『双曲線』を題材にしたオペラの作曲を構想。歌を学び、法律学校の聖歌隊の一員となる。

1854年6月13日(14歳)、コレラに罹患した母アレクサンドラが40歳で亡くなり、チャイコフスキーは大きな打撃を受けた[14][15]。母から離れて暮らしていたうえ、母が死んだというトラウマは、チャイコフスキーの心の中に死ぬまで残った[16]。この直後から、音楽にいっそう専念するようになり、作曲を始めるようになった。最も古い作品だと思われる、アナスターシャ・ワルツはこの頃に作曲されている[8]1855年、R・キュンディンゲルからピアノを、A・キュンディンゲルから和声学を、G・Y・ロマーキンから声楽を学び始める。R・キュンディンゲルはチャイコフスキーの才能に感嘆したが、将来音楽家や作曲家になるようなことを示すものではなかったと語っている[17]。彼のチャイコフスキーに対するこの評価は、彼自身のロシアでの音楽家としての辛い経験を踏まえて、チャイコフスキーに同じ目に遭ってほしくなかったという思いによるものだったことをのちに彼は認めている[18]

1859年5月13日に法律学校を卒業し、6月3日に法務省に9等文官として就職。仕事のほとんどは訴訟事務の取り扱いであり、味気のない日々が続いた。チャイコフスキーは官吏としての職務にはそれほど熱意はなかった[7]1861年には、妹のアレクサンドラがウクライナのカーメンカに領地のある大貴族ダヴィドフ家に嫁ぐ。チャイコフスキーはこのカーメンカ(カーミアンカ)の地を気に入り、1870年代にはこの土地を毎年のように訪れ、この地でいくつもの楽曲を作曲している[19]。チャイコフスキーの兄弟姉妹は後年にいたるまで仲がよく、チャイコフスキーを支え続けた。同年、ヨーロッパに初の外国旅行をした[20]ニコライ・ルビンシテイン(1872年)

ここまでチャイコフスキーは平凡な文官としての道を歩んでいたが、1861年の秋に知人からの紹介で音楽教育を行っている帝室ロシア音楽協会を知り、1862年9月より学び始める。ザレムバのクラスで和声学と対位法を学び、アントン・ルビンシテインのクラスで編曲と作曲を学び始める。このクラスに入学したことがチャイコフスキーに取って大きな転機となった。この音楽クラスは翌1862年アントン・ルビンシテインによってペテルブルク音楽院に改組される。ここでチャイコフスキーは音楽を本格的に学び、のめりこんでいく。本格的に音楽の道に進むことを決意したチャイコフスキーは、1863年4月(5月とも[15])、23歳のときに法務省の職を辞して音楽に専念することになる[20]。ピアノと作曲、音楽理論の家庭教師としての仕事を得る。チャイコフスキーは大作曲家としては珍しく、一般高等教育を受けたあとに音楽教育を受けており、そのため音楽家としてのスタートはほかの作曲家と比べて非常に遅いものとなった。

1865年12月には、ペテルブルク音楽院を卒業し、1866年1月にモスクワへ転居し、帝室ロシア音楽協会モスクワ支部で教鞭をとる。この支部からは同年9月にアントン・ルビンシテインの弟、ニコライモスクワ音楽院を創設し、チャイコフスキーはそこに理論講師として招かれ、以後12年間ここで教鞭を取ることとなった。またこれ以降、チャイコフスキーはモスクワを活動拠点とするようになり、音楽院辞職後もチャイコフスキーはモスクワおよびその近辺にとどまることが多かった。後に、チャイコフスキーのほとんどの楽譜を出版することとなるユルゲンソン社のピョートル・イヴァノヴィチ・ユルゲンソンとは、この時期に知り合った[8]。この年に交響曲第1番『冬の日の幻想』(作品13)の作曲を始め、12月に第2楽章が初演、翌年2月に第3楽章が初演された。(全曲が初演されたのは1868年。)また、1867年、初のオペラである『地方長官』を完成させた。国民的色彩の強い、交響曲第1番の初演をきっかけに1868年には、サンクトペテルブルクでロシア民族楽派の作曲家たち、いわゆるロシア5人組ミリイ・バラキレフツェーザリ・キュイモデスト・ムソルグスキーアレクサンドル・ボロディンニコライ・リムスキー=コルサコフ)と知り合い、交友を結ぶ[20]。同年、バラキレフの意見を聞きながら、幻想的序曲『ロメオとジュリエット』を作曲し、バラキレフに献呈している。チャイコフスキーは彼らの音楽とはある程度距離をとったものの、こののちチャイコフスキーの音楽には時にロシア風の影響が現れるようになった[21]。同年、ベルギーのオペラ歌手デジレ・アルトーと恋に落ち、毎晩、彼女の元へ通うようになる。このことが誰の目にも明らかになり、自分の父親に結婚したい旨を手紙で書き送る。婚約にまで至るが翌年破綻した[20]

1868年3月10日、新聞「同人代の年代記」紙に、チャイコフスキーが執筆した初めての音楽評論が掲載される。「リムスキー=コルサコフ氏の『セルビア幻想曲』について」と題し、ロシアの音楽評論の論壇を批判した本記事は『セルビア幻想曲』が聴衆や批評家から受けた冷ややかな反応に対して作品と作曲者を擁護した内容となっている。1872年からは新聞「ロシア報知」の音楽批評欄を担当するようになる。バイロイト音楽祭バイロイト祝祭劇場のこけら落としのレポートなど50あまりの批評を執筆し、この仕事は1876年まで続けた[22][15]ハンス・フォン・ビューロー

1875年ピアノ協奏曲第1番(作品23)を作曲。初演を依頼したニコライ・ルビンシテインの酷評を受け、ハンス・フォン・ビューローに楽譜を送る。ビューローによる初演は大成功し、ヨーロッパの各都市で演奏された。ニコライはチャイコフスキーに謝罪し、自らもこの曲を演奏するようになった。ナジェジタ・フォン・メック夫人

1876年、『テンペスト』を聴いて感激した富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メック夫人から6000ルーブルの資金援助を申し出られる。これ以降、1890年までの14年間、メック夫人から資金援助を受けることになる。チャイコフスキーとメック夫人の間には頻繁に手紙が交わされたが、2人が会うことは一度もなかった。このころ作曲された交響曲第4番(作品36)はフォン・メック夫人に捧げられた。またトルストイとも知り合う。同年、西ヨーロッパに旅行に出かける。パリではビゼー『カルメン』を鑑賞し、強く感動した。チャイコフスキーとアントニーナ・ミリューコヴァ

1877年にはアントニーナ・ミリューコヴァに熱烈に求婚され、結婚したものの、この結婚は失敗だった。チャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るほど精神的に追い詰められた。10月にチャイコフスキーは突然妻の元を去り、弟のアナトーリーが付き添いペテルブルクに逃れ、事実上離婚した。アントニーナが離婚に納得することはなく、その後もチャイコフスキーに手紙を送って彼を悩ませた[22]


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