チャイコフスキーとロシア5人組
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ピョートル・チャイコフスキー(左上)とロシア5人組、左下より反時計回りにミリイ・バラキレフツェーザリ・キュイアレクサンドル・ボロディンモデスト・ムソルグスキーニコライ・リムスキー=コルサコフ。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

チャイコフスキーとロシア5人組では、ピョートル・チャイコフスキーとロシア民族主義を目指した音楽家との対立について解説する。
総論

19世紀の半ばから終わりにかけてのロシアでは、ピョートル・チャイコフスキーロシア5人組と呼ばれる作曲家集団がロシアのクラシック音楽は西欧もしくは自国の方法論のどちらに従うべきかという問題で意見の食い違いを見せていた。チャイコフスキーは西欧基準の評価にも耐え、国境の壁を超えるような専門的な楽曲でありながらも、旋律、リズムやその他の音楽の性格においてはロシアの特色を持たせたままにしたいと希望していた。ミリイ・バラキレフツェーザリ・キュイモデスト・ムソルグスキーアレクサンドル・ボロディンニコライ・リムスキー=コルサコフから成るロシア5人組は古いヨーロッパの音楽の模倣、もしくはヨーロッパ流の音楽院教育に依存した音楽ではなく、明瞭にロシア的な芸術音楽の創造を目指していた。チャイコフスキー自身も自作に民謡を取り入れることがあったが、大抵の場合は西欧の作曲技法をなぞろうとしており、その傾向は調性和声進行において顕著であった。また、チャイコフスキーとは異なり5人組の面々は誰も教育機関で作曲理論を学んだことがなかった。事実、5人組の主導的役割を担ったバラキレフはアカデミズムを音楽的創造に対する脅威であると看做していた。バラキレフは5人組を擁護した批評家のウラディーミル・スターソフとともに、チャイコフスキーの母校であるサンクトペテルブルク音楽院とその創設者であったアントン・ルビンシテインに向かって、発言によって、または出版物を用いて容赦ない攻撃を加えたのである[1]

ルビンシテインの最も知られた門弟となっていたチャイコフスキーは、その連想から真っ先に当然の攻撃対象と看做され、中でもキュイが出版した批判的評論において槍玉に挙げられた[2]。しかし、ルビンシテインが1867年にサンクトペテルブルク音楽院の職を退くとこうした態度は変化の兆しを見せ始める。1869年にはチャイコフスキーとバラキレフは協力関係に入る。そうして出来上がったのがチャイコフスキーの出世作となる幻想序曲『ロメオとジュリエット』であり、5人組もこの作品を心から受け入れたのであった[3]。チャイコフスキーがリムスキー=コルサコフの『セルビア幻想曲』へ好意的な批評を執筆すると、その音楽的素地に残るアカデミックな性質に懸念を持たれつつも5人組に受け入れられた[4]。「小ロシア」という愛称で知られるチャイコフスキーの交響曲第2番1872年に初演されるや否や、5人組からの熱狂的な歓迎を受けた[5]

チャイコフスキーは5人組と親しい間柄であり続けたがその大部分については追従する態度を見せることはなく、彼らの音楽については態度を決められずにいた。彼らの目標や美的感覚はチャイコフスキーと合わなかったのである[6]。5人組、そして音楽院での旧態依然な派閥争いから自らの音楽を遠ざけておくため、彼は痛みを取ることにした。彼がアントンの弟であるニコライ・ルビンシテインからの招聘を受けてモスクワ音楽院の教授職に就いたことで、その方向へ進むことになっていったのである[7]。リムスキー=コルサコフがサンクトペテルブルク音楽院の教授職を打診された際、助言と指導を求めて頼っていったのはチャイコフスキーだった[8]。後年、リムスキー=コルサコフが愛国主義者仲間から自らの音楽指導、そして自身が熱意を傾けていた音楽研究における態度の変転に関して圧力をかけられていた際[9]、チャイコフスキーは彼を道徳的な形で励まし続け、彼の行いを全面的に称賛すること、そして彼の芸術に対する謙虚さと個性の強さに感心していることを伝えている[10]。5人組がそれぞれの道を歩むようになってしばらく経った1880年代になると、そのあとを埋めるようにベリャーエフ・サークルと呼ばれる勢力が台頭してくる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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