この項目では、中華民国の行政区画について説明しています。
地理的概念については「西蔵」をご覧ください。
チベット人の歴史的居住地域については「チベット」をご覧ください。
中華人民共和国の行政区画については「チベット自治区」をご覧ください。
地理的名称については「チベット高原」をご覧ください。
中華民国 西蔵地方
← 1912年 - 1949年 →
西蔵地方の位置西蔵地方の位置
簡体字西藏
繁体字西藏
?音X?zang
カタカナ転記シーザン
国家中華民国
行政級別地方
政府所在地ラサ
建置1912年
消滅1949年
面積
- 総面積1,215,780 km²
人口
西蔵地方(せいぞうちほう)は、中華民国でかつて名目的に存在していた省級の行政区画。実際にはチベットが実効支配しており、中華民国の支配は及ばなかった。
チベット政府ガンデンポタンは、1911年-1912年の辛亥革命によってダイチン・グルン(大清国)が滅亡して以来、モンゴルとともに、中国とは別個の独立国家を主張し、国際承認をもとめる外交活動を行っていた。中華民国は、チベットの全域を中国領と主張し、実効支配を確立していたアムド地方とカム地方の北部を甘粛省と青海特別地区(1928年より青海省)に、カム地方の東部を川辺特別地区と雲南省に組み込み、ガンデンポタンが実効支配していたウー・ツァン地方、ガリ地方、カム地方の西部のうち、ウー・ツァン地方とガリ地方をまとめて「西蔵地方」と称した。カム地方西部については、中華民国の実効支配下にはなかったが、川辺特別地区(1939年より西康省)に帰属すると主張し、西蔵地方には含めなかった。 清末はイギリスとの協調路線を模索したチベットであるが、1913年(民国2年)10月、イギリス政府は袁世凱に対しインドシムラーでの英中蔵会談の開催を要求し、同時にチベットを中華民国を宗主国とする自治国とする草案が提出した。この結果翌年7月に英蔵間で『シムラ条約』が締結されたが、中華民国代表はその批准を拒絶すると同時に、イギリス政府によるチベット分離工作は失敗したとの声明を出している。 チベットのガンデンポタンはチベットのうち中央チベット[1]を実効支配下におき、中国とは別個の独立国としての国際的地位の獲得を目指した。中華民国側は、ガンデンポタンが掌握している領域に対し、名目上、省を設置する条件が整っていない特別地区 中華民国は「西蔵地方」を「前蔵」(首府ラサ)、「後蔵」(首府シガツェ)、「阿里」(首府ガルトク、?大克)の3地域に区分した。カム地方は清末?民国初期を除き、ディチュ河(金沙江)付近を境界としてチベットと中国が二分する形勢であったが、中華民国はガンデンポタンが実効支配している領域をふくめ、全域を名目的に、川辺特別区(1939年より西康省)に帰属するものとし、「西蔵地方」には含めなかった。
行政沿革
行政区域
関連項目
西蔵 - 現在にいたるまでの用法の変遷、中国の国内外で使用される各種の西蔵概念
青海
烏斯蔵
唐古特
チベット
チベットの領域に関する認識と主張
注釈^ ガリ地方、ツァン地方、ウー地方などを中心とする部分。西蔵。
歴
3市
基隆
新竹
嘉義
11県
宜蘭 | 新竹 | 苗栗 | 彰化 | 南投 | 雲林 | 嘉義 | 屏東 | 台東 | 花蓮 | 澎湖
2県
金門
連江
大陸地区を含む全領域(中国語版)の行政区画4
(1912年 - 2005年5)
14直轄市
南京(中国語版)
漢口
広州
重慶(中国語版)
瀋陽(中国語版)
上海(中国語版)
西安(中国語版)
大連(中国語版)
青島(中国語版)
天津(中国語版)
哈爾浜(中国語版)
北平
台北6
高雄6