チエンセーン郡
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チエンセーン郡
チエンセーン郡の位置
情報
タイ語名?????????????
チエンラーイ県
地理番号5708
郵便番号57150
統計
面積285.0 km2
人口76,673 人 (2000年)
人口密度269.0 人/km2
行政
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チエンセーン郡(チエンセーンぐん)は、タイ北部のチエンラーイ県にある郡(アムプー)の一つ。現在は国境のメコン川を船で渡るとラオスボーケーオ県トンプーン郡(英語版)に入国出来る。メコン川上流は、船舶航行協定によって、プーアル茶で有名な中国の普?市(プーアル市, 旧「思茅市」)からラオスのルアンパバーンまで、全長886キロメートル区間で自由貿易が出来る。チエンセーン港から中国の景洪まで船が運航されている。
名称

ラーンナー王朝初代王、マンラーイの出身地として知られ、ヒランナコーングンヤーン (???????????????) [1]と呼ばれていたが、マンラーイは遷都。後に三代目の王セーンプーによって1329年、再建されチエンセーンつまり、「セーンプーの街」と名を変えた。
歴史ワット・パーサック

チエンセーンの歴史はかなり古く、確実なのはグンヤーン王国(英語版)(: ???????????????????????、: Hiran Ngoenyang Chiangsaen[2])の存在である。

チエンセーンは、君主マンラーイのふるさとであったが、マンラーイはの侵攻を避けるため、チエンラーイに遷都した。その後しばらく放置されていたが、最終的に第三代の王、セーンプーによって西暦に換算して1329年3月3日金曜日にチエンセーンとして再建された[3]。このチエンセーンの目的は北方のコック川支流のタイ族のムアンを軍事的に監督する為であった。

1336年に王位についたパーユーはチン・ホー族(英語版)(雲南省に住むムスリムの集団)に対する朝貢を取りやめたが、1405年にこれに怒りを覚えたチン・ホー族によって軍事都市チエンセーンは包囲される。このときチエンセーンにいた王、サームファンケーンは援軍を呼び集め、チン・ホー族をシップソーンパンナーまで追い返した。これにより、チエンセーンはタイ北部における要所としての地位を確立した。

時代は下り1870年、ビルマのケントゥンから大量に人がなれ込み独立を主張したため。1874年までに、ラーンナー王のインタウィチャヤーノンの命令でチエンラーイに移住するよう勧告をだしたが、移民がこれを無視しづけたため、軍隊を派遣し、住民を蹴散らした。この為、一時、チエンセーンは廃墟と化した。

その後、ラーンナーのチェットトン王家の血を引くラムパーンの国主、ブンマームアンの息子インタがチエンセーンの国主として派遣され、1880年に1500世帯のタイ族が移住させられ、現在のチエンセーンの原型ができあがった。

1940年頃、メコンを挟んで対峙していた英領ビルマ仏領インドシナによってアヘンの生産の調整が行われるが[4]その一方でチエンセーンはアヘンの貿易ルートとなり、特に第二次世界大戦後、チエンセーンを含む一帯は黄金の三角地帯と呼ばれるほど、世界のアヘン生産・取引の代表的地域と見なされるようになった。ただし、1980年代以降、取り締まりを強化したり代替作物の奨励などにより、アヘンの生産は減っている。また、遺跡があることや自然が豊富であることから、観光地として開発がされた。

行政区分としての郡としての歴史は20世紀に始まり、中心地域を被うチエンセーン分郡と呼ばれる地域とともに、郡とされた。その後、このチエンセーン分郡は廃止される[5]が、2年後チエンセーンルワン分郡 (?????????????????????) の名の元、再建される.[6]。1939年、この分郡の本家であるチエンセーン郡がメーチャン郡と名を変え、分郡はチエンセーンと名を変えた[7]。 1957年4月6日、分郡から郡へと昇格した[8]
地理チエンセーンから見た黄金の三角地帯、向こう岸の森林はラオスで、中州のように見えるのはミャンマーである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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