この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2021年12月)
チェーザレ・ボルジア
Cesare Borgia
バレンシア枢機卿
チェーザレ・ボルジアの肖像(アルトベロ・メローネ
ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジア(イタリア語: Cesare Borgia, duca di Valentino 発音: [?t??zare ?b?rd?a]、スペイン語: Cesar Borgia(セサル・ボルヒア)またはCesar Borja(セサル・ボルハ)、バレンシア語:Cesar Borja、1475年9月13日(14日説有) - 1507年3月12日[1])は、アラゴン(スペイン)系[2]イタリア人[3][4]の枢機卿、傭兵隊長(コンドッティエーレ)[5][6]であり、その権力闘争はニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』に大きなインスピレーションを与えた。教皇アレクサンデル6世の庶子であり、スペイン・アラゴン系のボルジア家の一員であった[7]。
当初は教会に入り、父の教皇選出により枢機卿の地位を得たが、兄の死後である1498年には枢機卿を初めて辞任した人物となった。1500年頃からフランス国王ルイ12世のコンドッティエーレを務め、イタリア戦争ではミラノとナポリを占領した。同時に、中央イタリアに自らの国家を切り開いたが、父の死後、長く権力を維持することはできなかった。マキャヴェッリによれば、それは彼に先見の明がなかったからではなく、新たな教皇の選択を誤ったためであった[8]。 ロドリーゴ・ボルジアとヴァノッツァ・カタネイの子としてローマで生まれた[注釈 1]。チェーザレの同腹の妹弟としてフアン[注釈 2]、ルクレツィア、ホフレ、異母兄としてペドロ・ルイス[注釈 3]らが知られている[注釈 4]。また、ミケランジェロ・ブオナローティやジョヴァンニ・デ・メディチ(後の教皇レオ10世)がチェーザレと同じ1475年にイタリアで誕生している。 チェーザレの幼年期より、ロドリーゴは枢機卿にまで昇進し、ボルジア家の発祥の地でもあったスペイン・バレンシアではガンディア公位をペドロ・ルイスが承継[注釈 5]していたものの、チェーザレは父の目の届くローマで暮らし、やがてピサやペルージャの大学で法律等を学んだ。そのいっぽうで狩猟[注釈 6]や武芸全般にも精を出した。チェーザレは灰色の目及びオレンジ色の髪の毛を持つ大変な美男子だったといわれ、後にマキャヴェッリも「容姿ことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢であった」とチェーザレの印象を書き残している。[10] チェーザレはロドリーゴの力添えにより、幼少の頃から以下の教会内要職を歴任した[11]。 1492年8月に父ロドリーゴがアレクサンデル6世として教皇の座を得たこの年に、チェーザレはバレンシア大司教として異例の抜擢を受けた。1493年9月に開かれた枢機卿会議において、アレクサンデル6世は会議の賛同を得て、チェーザレをバレンシア枢機卿に任命した。これにより、アレクサンデル6世が教会内での自らのボルジア家の後継者を暗示する形となった。
生涯
幼年・青年期
1483年3月、教皇庁書記長
1483年7月、バレンシア大聖堂司教座聖堂参事会員
1483年8月、ガンディア司祭他
1484年9月、カルタヘナ大聖堂管財官及びタラゴナ大聖堂司教座聖堂参事会員他
1491年9月、パンプローナ司教
大司教・枢機卿時期アレクサンデル6世