チェルニャコヴォ文化
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チェルニャヒーウ文化の初期は薄いオレンジの線で囲まれた点描部分の地方。
濃いオレンジの線で囲まれた地方はチェルニャヒーウ文化が拡大した範囲。
薄いオレンジの矢印はゴート族ヴィェルバルク文化の進出方向。
黄色い線で囲まれた地域は南下してきたゴート族がその地方のチェルニャヒーウ文化と融合して成立したキエフ文化という独特の文化が発展した地方で、4世紀にフン族が襲来するまでゴート族の大半はここに落ち着いていた。

チェルニャヒーウ文化(チェルニャコヴォぶんか)ないしチェルニャホフ文化(チェルニャホフぶんか、ウクライナ語:Чернях?вська культура;英語:Chernyakhiv culture[1]ないしCherniyakhov culture)は2世紀から5世紀にかけて黒海の北西一帯(現在のウクライナモルドバルーマニアポーランド南部)にかけて広がっていた文化。名称は、キエフ州チェルニャヒーウ村で発見された遺跡にちなむ。これまでに数千の遺跡が発掘されている。もとはサルマタイ人スラヴ人の混合文化であったが、のちにダキア人ゲタイ人ゴート人などがやってきて定住した。
特徴

それぞれの集落の大きさはさまざまで、平均的な集落は25-45戸の住居から構成されている。家の様式は半地下式のもの、地上式で編み垣構造に漆喰を用いたもの、石造りのものの3種類に大きく分けられる。時代が進むと、北部の森林地帯を中心として、木の杭をたくさん立てて壁材の骨格とした、のちの時代に典型的なスラヴ人住居の様式となった特徴が広く見られるようになる。大型の倉庫も建てられるようになり、スペルト小麦大麦が保蔵されるようになった。それぞれの家では土を固めて作ったかまどが一般的になっている。城塞のような構造の集落はほとんど見られなくなり、ほとんどの集落は開けた構造となった。一部に城塞が残ったが、これらは前の時代よりも堅固な造りとなった。主な家畜はで、ロバも飼っていた。古代世界の各国との交易を盛んに行っており、古代ローマ帝国の貨幣、陶器、琥珀製品、大理石ガラス製のビーズ細工などが発掘されている。埋葬は土葬火葬がある。土葬では遺体は頭を北か西に向けている。火葬では骨壺が広く用いられている。どちらの形態の墓にも、副葬品として陶器、道具、武器、装飾品、死後の食事として供えられた食物が頻繁に見られる。
住民の構成プシェヴォルスク文化(黄緑)とザルヴィンツィ文化(赤)。
のちにゴート人が上図のように両者の間、ヴィスワ川東岸を南下していくことになる。
紺色はローマ帝国

チェルニャヒーウ文化の範囲にはさまざまな言語・民族集団が住んでいたものと推定される。主な集団は南のステップ地帯から進出してきたサルマタイ人と北の森林地帯から進出してきたスラヴ人である。サルマタイ人はイラン語群の言語を話していた遊牧民で、上記の土葬墓の主であることが明らかとなっており、彼らは自分たちが昔から暮らしていたステップ地帯だけでなく、森林地帯との境界地域にまで広く進出していき、その前の時代にこれらの地方一帯を支配し同じくイラン語群の言語を話していた遊牧系スキタイ人を圧倒し取って代わって政治的主導権を握った。次に大きな集団要素は、ステップ・森林境界地帯から北の地域を中心として支配した プシェヴォルスク文化ザルビンツィ文化の担い手で、上記の火葬墓の主たちである。この特徴から彼らはスラヴ人であると推定される。彼らは南下してサルマタイ人の住むステップ地帯に進出しさかんに農業を行った。このことから両者は互いに排斥しあうのではなく、ひとつの社会として混合していったことが推測される。のちに西からダキア人やゲタイ人がこの文化圏に移住し、さらにはヴィェルバルク文化のゴート人が北方からやってきて主にこの文化の北辺に定住、結果としてこの文化圏においては、語派の異なる集団間で言語的特徴の交換がさかんに行われるようになった。ゴート人の定住した北部地域を中心にスラヴ人との混合文化であるキエフ文化も生まれ、政治的にはそのうちの一部の地域において、ゴート人の王を輩出するオイウム王国が存在していたことが6世紀のゴート人の歴史家ヨルダネスによって記述されている。
フン族の襲来とその後6世紀の中央ヨーロッパ東ヨーロッパ
オレンジ色は東スラヴ人のうちの南部文化であるペンコヴォ文化。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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