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現在のチェチェン共和国の主要な住民はチェチェン人で、隣接するイングーシ共和国のイングーシ人と非常に近しい関係にある。チェチェン人、イングーシ人は古来北カフカスの山地に住み、両民族の言語(チェチェン語、イングーシ語)は、グルジア語などと同じコーカサス諸語のうちのナフ語派に属する兄弟言語である。そもそもチェチェン、イングーシの民族名は、それぞれの居住地域にあった村の名前から起こった他称なので、もともと両民族は同一であったとみなす人も多い[誰?]。 イスラム化以前のチェチェン人は、自ら歴史記録を残すことはなかったが、地誌の記載や考古学上の遺跡から、古くから北東カフカスに住んでいたことが明らかになっている。チェチェン人とイングーシ人の先祖と思われる民族は、7世紀の地誌に記録されているという。 en:Mongol invasions of Chechnya 16世紀末頃から東のダゲスタンよりイスラム教(イスラーム)が流入し、次第に広まっていった。 一方、同じ頃にモスクワ大公国を中心に政治的統一を進め、国家形成を行っていたロシアは、17世紀末までに全シベリアを併合し、18世紀には南下を開始、バルト海沿岸、黒海沿岸、カザフ草原、マンチュリア(満州)東北部の沿海州)などを次々に併合した。 同世紀には、クリミア・ハン国とその宗主国であるオスマン帝国の勢力下にあった北西カフカスへの侵攻を開始し、チェルケス人の一派であるカバルド人を勢力下に取り込み始めた。同世紀末にはカフカス支配の拠点として北カフカス中央部のテレク川の河畔にウラジカフカス(現北オセチア共和国)を建設、テレク川以東に住むイングーシ人、チェチェン人の征服を進めた。 ロシアは、1801年にはイランのカージャール朝を破って東グルジア(カルトリ・カヘティア)を併合し、南カフカスまで勢力を広げた。こうして1828年までにオスマン帝国領のアジャリア(グルジア南西部)を除くカフカスのほとんど全域がロシアの支配下に入るが、その中で北カフカスにあってロシアの支配に対して激しく抵抗したのが、チェチェン人をはじめとする、ダゲスタンとチェチニア チェチェン人は19世紀前半までにイスラム教のスンナ派が支配的な宗教となり、イスラム神秘主義のナクシュバンディー教団の導師たちが社会の指導的な地位につくようになっていた。チェチェニアやダゲスタンの人々は、このようなイスラム神秘主義教団の組織力と結束に支えられて、ロシアに対する抵抗を頑強に続けたのである。この運動のことをミュリディズムという。 1785年には、チェチェン人の導師シャイフ・マンスール
古代チェチェン
モンゴル帝国とイスラムによる征服
ロシア帝国による征服
反ロシア戦争