チェスター・ニミッツ
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チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア
Chester William Nimitz, Sr.
1945年撮影
生誕 (1885-02-24) 1885年2月24日
アメリカ合衆国 テキサス州フレデリックスバーグ
死没 (1966-02-20) 1966年2月20日(80歳没)
アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフランシスコ イェルバ・ブエナ島
所属組織 アメリカ海軍
軍歴1905年1月 - 1966年2月
最終階級 海軍元帥
除隊後カリフォルニア大学評議員
墓所ゴールデン・ゲート国立墓地
署名
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チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア(英語: Chester William Nimitz, Sr.、1885年2月24日 - 1966年2月20日)は、アメリカ合衆国海軍軍人。最終階級は海軍元帥第二次世界大戦中のアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官(Commander in Chief, United States Pacific Fleet and Commander in Chief, Pacific Ocean Areas. 略称CINCPAC-CINCPOA)として日本軍と戦った。
生涯
生い立ち

1885年2月24日、テキサス州フレデリックスバーグに誕生する。なおドイツ系移民(ドイツ系アメリカ人)である。

ニミッツの祖先はザクセン地方出身のフライヘル(男爵)の称号を持ち、1648年に三十年戦争の終了後ハノーファー近くに定住していたが、没落して平民となり、ニミッツの曽祖父ハインリヒ・ニミッツの代で放蕩のために家財を失い、船会社に就職した。ニミッツの祖父のチャールズ(14歳で船員)らと共にアメリカ南部のサウス・カロライナ、チャールストンに1840年から4年間の間に家族全てが移住した。

祖父のチャールズは折からの西部開拓熱により、ドイツ人のオットフリート・ハンス・フォン・モイズバッハ伯爵に率いられたドイツ人入植者らとテキサス州にフレデリックスバーグを建設し、チャールズは1852年にフレデリックスバーグでホテル業(現代日本の感覚では民宿に近い規模)を始め、後にテキサス州の州議会議員になった。チャールズはテキサスのジョークの大家でユーモラスな馬鹿話を真に迫って話すのが得意で、ニミッツはこの特技を祖父から受け継ぎ、終生彼の周りは船乗り特有のユーモアで和むことが多かった。

父のチェスター・ベルンハルト・ニミッツ(Chester Bernhard Nimitz)はニミッツの誕生前に死亡し、母のアンナ・(ヘンケ)・ニミッツ(Anna・(Henke)・Nimitz)は夫の兄弟(ニミッツから見ておじに当たる)と再婚し、チェスター少年は祖父と義父が経営するホテルの手伝いをしながら育つ。このとき培った人を見る目と人の動かし方は、後に海軍軍人となった折、大いに彼の財産となった。
海軍入隊アナポリス時代のニミッツ1907年頃

1900年に陸軍の若い少尉2人がニミッツのホテルに宿泊したことをきっかけにウェストポイント(アメリカ陸軍士官学校)への進学を志すようになるが、入学に必要な議員の推薦を得ようとした際に地元テキサス州選出の下院議員ジェームズ・L・スレイデン(英語版)はウェストポイントへの推薦枠を使い切ってしまっていた。しかしアナポリス(アメリカ海軍兵学校)であればまだ手持枠があるので推薦できるとの回答を得られたので、親からの自立を望んでいたニミッツはこれを受け、1901年9月7日にアメリカ海軍兵学校に入学した。当時の大統領セオドア・ルーズベルトの海軍拡張政策により卒業時期が当初の6月から繰り上げられ、1905年1月30日に卒業した。卒業席次は114人中7番。

少尉候補生となると、サンフランシスコにて米アジア艦隊旗艦となる戦艦「オハイオ」に配属となり、東アジアへ航海する。日本に寄港した際、日本海海戦で大勝をおさめたばかりの東郷平八郎と会話する機会があり、ニミッツは大変な感銘を受けた(詳細は後述)。

1906年9月、巡洋艦「ボルチモア」に転属となり、1907年1月31日に正式に少尉に任官し、アジア艦隊所属の砲艦「パナイ」艦長、駆逐艦「ディケーター」艦長となったが、「ディケーター」を座礁させて巡洋艦「デンバー」に転属。ニミッツは軍法会議にかけられ、「職務怠慢」で有罪となった。1908年12月に砲艦「レンジャー」で帰国。戦艦勤務を希望したが、翌1909年1月に第1潜水艦隊に回されて潜水艦「プランジャー」艦長となった。1910年10月、士官増強政策の一環として中尉を飛ばして大尉に昇進し(手続き上はいったん中尉に昇進し、同日時に大尉昇進となっている)、第3潜水戦水戦隊司令兼「ナーワル」艦長となり、1911年11月には新鋭艦「スナッパー」に旗艦を移している。

1912年1月、海軍大学校で「潜水艦の攻撃と防衛作戦」の題の講演を行い、12月には海軍協会誌に掲載された。

1913年4月、船舶ブローカーを父に持つキャサリン・ヴァンス・フリーマンと結婚した。フリーマン家を訪れたニミッツとキャサリンは、姉エリザベスに代わってニミッツとカードゲームを行った時に知り合った。キャサリンは「こんなハンサムな人に会ったことがない、母に挨拶したときの目が美しく、微笑はとても魅力的だった、それから彼のことばかり考えた」と回想している。以後二人は親密さを増した。ニミッツ一族にはフレデリックスバーグのドイツ系移民の子孫と結婚する伝統があったが(キャサリンはマサチューセッツ出の北部人であった)、ニミッツは「南部人」や「テキサス人」などと考えるのは古く、「自分はアメリカ市民である」との考えから、故郷の閉鎖的な考えに既に興味はなかった。ニミッツとキャサリンとは完全に理解し合い、彼の子供達によれば終生喧嘩をすることさえなかったという。
第一次世界大戦

1913年5月、潜水艦用ディーゼルエンジンの研究のためドイツとベルギーに派遣され、帰国後はニューヨーク海軍工廠所属となった。この時、とあるディーゼルエンジン会社から年俸25,000ドルで引き抜きの話があったが、断っている。ちなみに当時の年俸は2,880ドルであった。海軍工廠での経験は後にミッドウェー海戦に先立つ空母「ヨークタウン」の修理見込みの見極めに役立っている。なおニミッツは、同工廠時代に事故で左手薬指の先を失った。

1916年8月29日には少佐に昇進し、翌1917年8月には大西洋艦隊潜水艦隊司令サミュエル・S・ロビンソン少将の参謀となり、第一次世界大戦を戦っている。1918年2月に参謀長となり、ロビンソンと共にイギリス・フランスの潜水艦の視察のため、ヨーロッパに派遣された。
戦間期

帰国後の1918年3月には中佐に昇進し、海軍作戦部の潜水艦設計委員会員となり、翌1919年に戦艦「サウスカロライナ」の副長となる。

1920年6月には真珠湾の潜水艦基地建設主任となり、1922年には海軍大学校に入学した。卒業後合衆国艦隊戦闘艦隊の先任参謀となり、戦闘艦隊司令官が合衆国艦隊司令長官に昇進すると合衆国艦隊先任参謀に横滑りした。

1926年に海軍予備士官訓練隊 (navy rotc) の制度が創設され、カリフォルニア大学バークレー校で創設に従事、同校で教官を務めている。

1927年7月には大佐に昇進し、1929年に第20潜水艦戦隊司令を経て1933年にアジア艦隊旗艦の重巡洋艦「オーガスタ」艦長になる。1934年には2度目の日本訪問となり、東郷平八郎の国葬に参列している。

1935年4月に海軍省航海局次長、1938年5月に合衆国艦隊第二巡洋艦戦隊司令官、1938年7月に少将に昇進し、9月には合衆国艦隊戦艦戦隊司令官を歴任する。

1939年8月、海軍省航海局長に就任した。この時、次長は初めフランク・J・フレッチャー少将で、9月からはランドール・R・ヤコブス少将が就任している。海軍次官経験者で、海軍に精通していた大統領フランクリン・ルーズベルトはニミッツの人物鑑定眼を高く評価しており、ウィリアム・リーヒ大将は海軍のトップ候補にトーマス・C・ハートアーネスト・キングの次にニミッツの名を挙げている。ハズバンド・キンメル太平洋艦隊司令長官就任時には、キンメルよりさらに1年後輩のニミッツも就任を打診されていたが、ニミッツが若輩を理由に辞退したため、キンメルが選ばれた[1]
第二次世界大戦
太平洋艦隊司令長官就任

1941年12月8日、ワシントンの自宅のラジオの臨時ニュースで真珠湾攻撃を知る。12月16日にキンメル大将の後任の太平洋艦隊司令長官となるように、とのルーズベルトの意向を海軍長官フランク・ノックス経由で伝えられる。


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