チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道
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「C&O」はこの項目へ転送されています。芸能事務所については「C&Oプロダクション」をご覧ください。

チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道

報告記号C&O, CO
路線範囲イリノイ州
インディアナ州
ケンタッキー州
ミシガン州
ニューヨーク州
オハイオ州
ペンシルバニア州
バージニア州
ワシントンD.C.
ウエストバージニア州
ウィスコンシン州
運行1869–1987
後継CSXトランスポーテーション
軌間1,435 mm (4 ft .mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}8+1⁄2 in)
全長4,994マイル (8,037キロメートル)
本社クリーブランド (オハイオ州)
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チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道 (Chesapeake and Ohio Railroad、C&O)とはかつてアメリカに存在した一級鉄道である。1869年バージニア州の小さな鉄道会社が合併して設立され、ウェストバージニア州石炭を搬出することでバージニア州ニューポートニューズ、そしてハンプトン・ローズ石炭桟橋を形成する基礎となった。また、逆に中西部への鉄道網を形成し、オハイオ州コロンバス、同シンシナティ、同トレドを経てイリノイ州シカゴまで延伸された。本社はオハイオ州クリーブランドにあった。

1972年、C&Oはボルチモア・アンド・オハイオ鉄道(B&O)、ウェスタン・メリーランド鉄道(WM)とともにチェシー・システムとなった。1980年にチェシー・システムはシーボード・システム鉄道と合併し、CSXトランスポーテーションとなり、現在7つある一級鉄道のひとつとして営業を続けている。会社としてのC&Oは、1987年9月2日の統合時にその歴史の幕を閉じた。

かつて本社はウェストバージニア州ハンティントンにあった。そもそも、ハンティントンは、1870年に当時のC&O社長だったコリス・ポッター・ハンティントン(Collis Potter Huntington)がC&Oの本社を置くために建設した都市であり、市の名称は彼の名前からとられている。
歴史
草創期 ブルーリッジ山脈越え

C&Oの起源は、バージニア州ルイーザ郡のルイーザ鉄道(1836年開業)と同州ジェームズ川&カナワ運河(1785年開業)である。1950年代および1960年代にC&Oは絶頂期を迎え、150以上の路線を持っていた。

1850年までに、ルイーザ鉄道は東はバージニア州リッチモンド、西は同州シャーロッツビルの路線を建設し、バージニア・セントラル鉄道と改称した。当時、バージニア州は州内の進歩のために各種の補助を施しており、バージニア・セントラル鉄道の株を取得しただけでなく、ブルーリッジ山脈を横断するブルー・リッジ鉄道を設立し、融資もした。ブルーリッジ山脈とはアパラチア山脈の南東側の端部にあり、東海岸から西へ向かう際に最初に立ちはだかる山脈である。

民間の技術者、クラウディアス・クロゼット(Claudius Crozet)の指揮の下、ブルー・リッジ鉄道は4つのトンネルとともに山脈越えの路線を作り上げた。このときに作られた、峠にあるブルーリッジトンネルは長さが4,263フィート(1299メートル)であり、当時としては世界最長のものであった。

同じころ、バージニア・セントラル鉄道はブルーリッジ山脈の西麓から西に向かって線路をひきはじめた。そのルートは、グレート・アパラチア渓谷の一部であるシェナンドー渓谷や、グレート・ノース山を越え、最終的にはアレゲーニー山脈の麓、ジャクソン川駅までたどり着いた。のちのクリフトン・フォージである。

アレゲーニー高地の横断を完遂させるために、バージニア州はコビントン・アンド・オハイオ鉄道という州所有の鉄道会社を作った。この会社はアレゲーニー山脈とその西側でトンネルをいくつも穿つなどして、勾配が緩和された路線を建設した。また、カナワ川沿岸のチャールストン近辺では多くの道路も建設した。その後、1861年に起こった南北戦争により、西に向けての延伸工事はストップした。
南北戦争で果たした役割

南北戦争の間、バージニア・セントラル鉄道はアメリカ連合国(南部連合)にとって重要な役割を持っていた。シェナンドーからリッチモンドへと食料を運んだり、軍隊や補給物資を作戦に応じて移動するために使用したのである。また、1854年にゴードンズビルで接続していたオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道(O&A)と継走するという重要な役割もあった。さらにバージニア・セントラル鉄道は実際の作戦においても使用され、軍隊を戦場に送り込んだ。しかし、合衆国軍にまっさきに攻撃され、終戦時にはわずか5マイル(8キロメートル)ほどしか運用できない状態になっており、金庫のなかには40ドル分の金しかなかった。
ハンティントン指揮下での鉄道建設

南北戦争のあと、ウィリアムズ・カーター・ウィッカム(Williams Carter Wickham)社長率いるバージニア・セントラル鉄道の従業員たちは、南部の壊滅的な経済を建て直し、イギリスを味方につけるためには、株を自分たちで所有しなければならないと悟った。そしてついに、彼らは鉄道王の一人、コリス・ポッター・ハンティントン(Collis Potter Huntington)をニュー・ヨークから招聘することに成功した。ハンティントンは大陸横断鉄道の一部であるセントラル・パシフィック鉄道を作ったビッグ・フォーと呼ばれる4人の鉄道王の一人であり、そのとき既に大陸横断鉄道は完成していた。ハンティントンは、ひとつの鉄道事業者が東海岸から西海岸への大陸横断鉄道を経営すべきである確固たるビジョンを持っており、バージニア・セントラル鉄道を、その東部のシステムとして機能させようとした。

ハンティントンはバージニア・セントラル鉄道にオハイオ川まで延伸する資金を提供した。アレゲーニー高地越えを目指してコビントンから西へ建設していたが、南北戦争により工事が中断していたコビントン・アンド・オハイオ鉄道が所有していた土地等は、彼らに譲渡された。これは植民地時代にグレート・コレクションと呼ばれていた大きな夢であった。

1867年7月1日、コビントン・アンド・オハイオ鉄道はジャクソン川駅(のちのクリフトン・フォージ)とコビントン(アレゲーニー郡の郡庁所在地)とを結ぶ鉄道を開業した。1869年にはアレゲーニー山脈を越え、ホワイト・サルファー・スプリングスに達した。道中には多数のトンネルが穿たれ、またコビントン・アンド・オハイオ鉄道が南北戦争以前に建設したルートが利用された。ここから馬車に乗り換えてチャールストンへと向かうルートが整備された。

1869年から1873年にかけて、ウェストバージニア州横断ルートが両側から多大な労力を動員して建設された。両端とは、東側はオハイオ川沿岸の新たな都市であるハンティントン市であり、西側はホワイト・サルファーである。横断ルートは、ニュー川渓谷のホークス・ネストで1873年1月28日に結合された。付近のルート19の橋、ニュー川渓谷橋(New River Gorge Bridge)は、川沿いを走るCSXを高低差267m(876フィート)でまたいでおり、アメリカでは1番、世界でも2番目に高い橋である。

ウェストバージニアでの鉄道建設は、蒸気機関の機械と肉体による作業を競ったという伝説上の人物、ジョン・ヘンリーを生みだした。競争が行われた場所は、タルコットの南のトンネルだと言われている(詳細はジョン・ヘンリーの項目を参照)。

この時期にコビントン・アンド・オハイオ鉄道を建設した典型的な人物として、ウィリアム・ペイジという市井のエンジニアが挙げられる。彼は、鉄道建設に就く前にバージニア大学でその技術を修め、1871年と翌年にはニュー川渓谷に架ける橋の位置選定と建設の指揮をとり、1874年にはミル・クリーク渓谷橋を、1875年と翌年にはハンプトン・ローズから、ニュー川とカナワ川の谷を経由してオハイオ川までの間に複線を建設するための測量隊を率いた。


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