この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "チェコスロバキア共産党"
チェコスロバキアの政党チェコスロバキア共産党
Komunisticka strana ?eskoslovenska
党章
成立年月日1921年5月14日-16日
前身政党社会民主党
解散年月日1992年
解散理由チェコスロバキアの分裂により
後継政党ボヘミア・モラビア共産党(チェコ)
スロバキア共産党(スロバキア)
本部所在地プラハ
政治的思想・立場マルクス・レーニン主義
シンボル
国際組織コミンテルン
テンプレートを表示
チェコスロバキア共産党(チェコスロヴァキアきょうさんとう、チェコ語: Komunisticka strana ?eskoslovenska (KS?))は、ヨーロッパのチェコスロバキアにおける共産党として1921年から1992年まで活動していた、マルクス・レーニン主義(共産主義)を掲げる政党である。設立当初から合法政党として議会内での勢力を維持し、1948年から1989年までは事実上の一党独裁政党として社会主義体制を維持した。
歴史
第二次世界大戦まで両大戦間の時期の共産党のポスター(1929年)
第一次世界大戦後の1918年に独立したチェコスロバキア共和国では、工業地帯である西部のボヘミアなどで社会主義運動が盛んだった。1921年5月16日、チェコスロバキア社会民主党から左派グループが離脱して、チェコスロバキア共産党が成立した。第一次大戦後の独立国としては珍しく議会制民主主義が安定していたチェコスロバキアでは、共産党は野党として議会に参加し、トマーシュ・マサリク大統領やエドヴァルド・ベネシュ大統領の下に社会民主党も参加する共和国政権と対立した。共産党は各種選挙で10%前後の得票率を獲得し、ソビエト連邦を除くヨーロッパ諸国で最高の支持を集める共産党の一つだった。
1939年3月14日にナチス・ドイツが軍隊をチェコスロバキア領内に進め、国家をドイツ保護領のボヘミア・モラビア保護領(チェコ地域)とスロバキア共和国に解体すると、共産党は直ちに非合法化された。同年に第二次世界大戦が始まり、1940年にイギリスの支援でエドヴァルド・ベネシュを大統領とした亡命政府がロンドンで成立し、1943年にソ連と友好協力相互援助条約を締結すると、共産党は亡命政権との協力を進めた。また、ソ連に亡命した共産党員は1941年からの独ソ戦でソビエト赤軍に従軍してドイツ国防軍と戦った。一方、チェコスロバキア国内でも共産党員は厳しい弾圧を受け、多くの党員が強制収容所で命を落としながらもナチス支配に抵抗し、赤軍のチェコスロバキア侵入が近づいた1944年8月には、保護国成立に対抗して結成されていたスロバキア共産党が亡命政権派と協力してスロバキア民衆蜂起を実行したが、自力での祖国解放には失敗した。 第二次大戦末期の1945年4月5日、赤軍と共に祖国に戻ったチェコスロバキア共産党はスロバキア東部のコシツェでコシツェ宣言を発表し、亡命政権の帰還と共産党の連立政権参加を提示した。同年5月にドイツが降伏し、チェコスロバキア全土が赤軍の占領下に入ると、帰国したベネシュを大統領とし、共産党も参加する国民戦線政権が発足した。1946年の総選挙では共産党が第一党となり、首相や内務大臣などのポストを獲得したが、得票率はチェコ(41%)・スロバキア(30%)でいずれも過半数には至らず(全国では36%)、アメリカ・イギリスとソ連との間で中立的政策を指向するベネシュ大統領やヤン・マサリク外務大臣(トマーシュの息子)と、ソ連軍の駐留を背景に影響力拡大を目指す共産党の議長でもあるクレメント・ゴットワルト首相との間で対立が深まった。 1948年2月、マーシャル・プラン受け入れ拒絶などで共産党の圧力が増大したのに抗議するために非共産主義政党の閣僚達がベネシュ大統領に辞表を提出すると、共産党はこれを逆手に取り、首都プラハなどでのデモ行動の結果、内閣を共産党とその同調者で独占する事に成功し、実権を握った。共産党側はこれを「二月の勝利」と呼んでいる。同年3月10日にはヤン・マサリク外相が外務省の中庭で転落死しているのが発見された。これは自殺とされたが、当時から共産党による他殺と疑われた。そして6月7日にベネシュ大統領が辞任し(同年9月3日に病死)、7月にゴットワルトが大統領に就任して、共産党が事実上一党独裁を行う人民民主主義が宣言された。 ゴットワルトは1929年に共産党書記長に就任し、第二次大戦中はソ連の首都モスクワで共産党パルティザンへの指揮を行っていた経歴の通り、非常にソ連に対して忠実な人物であり、当時のソ連の独裁者であるヨシフ・スターリンの政治手法をそのまま踏襲した。すなわち、戦前のチェコスロバキアが維持していた議会制度は完全に放棄され、他政党の支持者はブルジョワ主義者や対独協力者として大量に粛清された。 粛清は共産党内にも及び、特に戦後もチェコスロバキア共産党の下部組織として存続していたスロバキア共産党は分離主義傾向を持つチトー主義者の根拠地として多くの犠牲者を出した。1951年には共産党のルドルフ・スラーンスキー書記長やヴラジミール・クレメンティス外相が逮捕され、1952年11月20日にはチトー主義・トロツキスト・アメリカのスパイなどの冤罪により11人が死刑判決を受けるスラーンスキー裁判
政権奪取
ゴットワルト独裁政権