この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2021年4月)
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽
本項では、チェコの音楽(チェコのおんがく)について概説する。
チェコ国家が形成された地域は中欧に位置しており、その歴史を概観すると、政治的には東ローマ帝国、神聖ローマ帝国、ハンガリー、オスマン帝国、ポーランドといった大国が鎬を削り、民族的にはゲルマン系集団、スラヴ系集団、マジャル人に代表される東方由来の遊牧民などが興亡を繰り広げた。さらに宗教的には正教会、カトリック、フス教徒を含むプロテスタントといったキリスト教諸会派が勢力を争い、多重で複雑な経過をたどっている。
このため、その音楽にも多様性が生まれ、アントニン・ドヴォルザーク、レオシュ・ヤナーチェクといったユニークな作曲家を生んだ。 チェコは、ボヘミアとモラヴィアの2つの地域に大別される。両者では、その民俗音楽に大きな特徴がある。チェコの指揮者・作曲家のヤロスラフ・フォーゲルは、その違いを次のように述べている。
民俗音楽としての系統と特徴
フレーズ相称的な構造非相称的な構造
拍節厳格で規則正しい拍節構造とリズムパターン不規則な長さのフレーズ構造
起源舞踊歌謡
フォーゲルはこうした特色を、それぞれの歴史的背景の所産としている。すなわち、ボヘミアと西モラヴィアは、ドイツとオーストリアに三方を囲まれ、14世紀のルクセンブルク王朝時代にフランスやイタリアと文化的交流が盛んに行われたのに対し、モラヴィア東部やスロヴァキアはこの時代に辺境の地であったために、それよりも古い時代、10世紀に栄え東ローマ帝国といった東方諸邦と交流の深かった大モラヴィア王国の時代の音楽を受け継いでいると推測している。 862年、東フランク王国やローマ教皇の干渉を排するため大モラヴィア王国のロスティスラフ王は、コンスタンティノポリスの総主教に接近し、この結果、翌年メトディオスとキュリロスの2人が使節として送られた。キュリロスは、当時この地域での話し言葉であった古代スラヴ語を表すための文字としてグラゴル文字を考案する。2人は典礼書
歴史
中世
チェコで作曲され、現在まで伝えられている作品中最も古いものは、10世紀の中頃から11世紀の初め頃にプラハのアダルベルト司教が作曲したとされる「主よ、憐れみたまえ」(Hospodine, pomiluj ny!
)である。現存する楽譜は1397年の写譜であるが、1055年にこの曲が歌われていたことを示す資料が遺っている。宗教的題材を用いているが、上述のように、この頃には教会内でスラヴ語の歌唱は行われなかったことから、教会の典礼用の作品ではなかったと推定されている。その後、この旋律は国歌に等しい扱いを受け、チェコの歴代国王の戴冠式で演奏される曲となった。次いで、12世紀後半のものと思われる「聖ヴァーツラフよ」(Svaty Vaclave)が1398年の年代記に登場する。この曲は1473年の写譜が現存している。これらはいずれもテトラコルド(四音音階)で構成されている。1310年にベーメン(ボヘミア)王となったヨハンが1323年以降秘書官にしていたのが、後にフランスのアルス・ノヴァを代表する作曲家となるギヨーム・ド・マショーであった。しかし、ヨハンはルクセンブルク伯を兼ねており、ボヘミアへは滅多に現れなかったため、マショーとチェコ音楽との結びつきは希薄である。ヨハンの子で神聖ローマ皇帝となったカール4世は文化を奨励し、プラハの聖ヴィトゥス大聖堂の聖歌隊を増員し、世俗音楽を奨励した。こうした文化的雰囲気を好み、ドイツでミンネゼンガー、フランスでトルバドゥールあるいはトルヴェールと呼ばれた吟遊詩人がプラハに集まり、西ヨーロッパの音楽をボヘミアにもたらすとともに、ボヘミアの音楽を各地に持ち帰った。これを契機にして、ボヘミアの音楽は西欧化したと考えられている。
こうした繁栄と裏腹に進行する教会の腐敗を批判し、教会が定めたラテン語ではなく国民に分かり易い言葉であるチェック語で教えを説いたのがヤン・フスであった。ヤン・フスは、自国語の歌を賛美歌として歌うこと、また大勢の人が同じ旋律をユニゾンで歌うことを奨励した。フスの死後、その思想を受け継いだ宗教改革運動はボヘミア全土に広がり、フス派の聖歌が各地に浸透していった。フス派の聖歌集(カンツィオナール)の代表作が、発見された町の名にちなんで「イーステブニツェ聖歌集」(Jistebnicky kancional)と呼ばれる曲集である。後にスメタナが交響詩「わが祖国」の第5曲「ターボル」で、またドヴォルザークが序曲「フス教徒」で引用した「汝ら、神の戦士よ」(Kto? jsu bo?i bojovnici)もこの中に収められている。 フス教徒の運動は、1434年リパニの戦いの敗北後、表面上は沈静化した。しかしフス教徒達は、これ以後、地方文化の担い手として民衆の間に入り込んでいったのだった。フス教徒の急進派から起こり後に福音派の母体となる「兄弟団同盟 (jednota bratrska
ルネサンス
兄弟団同盟は、フスの教えを守り、モノフォニーの音楽にこだわり続けた。彼らのグループに属す16世紀の重要な作品とその編纂者を列挙する。