チェコのアニメーション
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チェコのアニメーションでは、チェコおよびチェコスロバキアで制作されたアニメーションについて述べる。

古くから人形アニメーションが活発に製作されている東ヨーロッパ圏のうち、チェコは最大の製作国として知られている[1]。チェコ出身のアニメ作家の世界のアニメーションへの功績を誇るチェコ人たちは、チェコアニメ界を指して「チェコアニメ映画学校」と称している[2]
チェコアニメの黎明期

1926年に広告画家のカレル・ドダルと彼の妻ヘルミーナ・ティールロヴァーによって製作された『恋する河童』がチェコ初のアニメーション作品とされている[2]。その後、ドダルとティールロヴァーはロシアのアレクサンドル・プトゥシコが制作した『新ガリヴァー(英語版)』に触発され、人形アニメーションの制作に着手[3]、1936年に人形と動画を組み合わせた『どこにでも顔を出すひとの冒険』、1938年に人形アニメ『カンテラの謎』を制作する[4]1939年にドダルはナチス・ドイツを避けて国外に亡命する。ティールロヴァーはチェコに残り、モラヴィアのゴッドヴァルドフ(現在のズリーン)に置かれたスタジオで製作を続け、1944年に人形アニメ『アリのフェルダ』を完成させる[2][5]。映画史家のジョルジュ・サドゥール(英語版)はドダル夫妻の作品について、『世界漫遊家の冒険』『忘れられないポスター』、いくつかの抽象的な映像で注目すべき成果を挙げたと評した[6]

一方、1939年にチェコスロバキアを保護国としたドイツはプラハの映画会社AFIT(Atelier filmoveho triku)を接収し、ディズニーに対抗するオペラ・アニメの製作を試みた[2]。ドイツの計画は未完のまま終わったが、チェコ人たちは自ら『珊瑚海の結婚式』を製作し、終戦までに作品を完成させた[2]。『珊瑚海の結婚式』の製作には、後にチェコアニメ界で活躍する監督、脚本家、デザイナー、アニメーターが多数参加していた[2]

第二次世界大戦の終戦直後、1945年にプラハに国立映画製作所が設置される。映画製作所の責任者に人形劇の美術やイラストレーションで活躍していたイジー・トルンカが就任し、トルンカ、ティールロヴァー、さらにカレル・ゼマンが本格的に活躍を開始した1945年は真の意味での「チェコアニメ誕生の年」と言われている[2]。人形アニメによる表現を追求したトルンカ、人形アニメを振り出しに布・毛糸などを用いた物体アニメを製作したティールロヴァー、アニメと人間を組み合わせた映像を表現方法に選んだゼマンらは、それぞれのスタイルで1960年代までチェコアニメを代表する作家として活躍した[2]
1940年代-1950年代

1940年代末のチェコのアニメ製作者はイデオロギーを作品に反映させることを主張するグループと、それに反発するトルンカらのグループに分かれていた[7]。1948年2月にチェコスロバキアで社会主義政権が樹立された後、アニメーションを含めたあらゆる映画産業が国有化される[8]。国からは映画の撮影に必要な資材が提供され、初期は創作の現場には自由な空気が存在していた[9]。しかし、次第に政府は映画の製作に干渉を行うようになり、1950年代のスターリン主義による抑圧の時代、1970年代の強硬な標準化が進められたブレジネフ時代にこの傾向は顕著になる[9]。社会主義国で与えられる表現の自由を誇示するため、政府は国際的な映画祭での成功を求め、製作者に規律への服従を強制することがままあった[10]。海外からの受注に応じて制作を行う部署にはある種の独立性があり、レンブラント・フィルム社、ウェストン・ウッド社がチェコの主要な顧客となっていた[9]

アニメ映画の揺籃期には製作スタッフはチームごとに様々な建物、スタジオに分散していたため、移動に不都合が生じていた[9]。しかし、こうした環境は小さく統制の取れた小規模のグループを生み出し、要求水準の高い作品を安価で作り出すことを可能にした[9]。後に分散していたスタジオはプラハ郊外に集められ、小さくまとまりの取れたグループのほとんどが消失した[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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