チェウリン
[Wikipedia|▼Menu]

チェウリン
Ceawlin
ウェセックス王
在位560年 ? 592年

死去593年

子女クスウィネ
家名ウェセックス家
父親キュンリッチ
テンプレートを表示

チェウリン(Ceawlin, CeaulinまたはCaelinとも、? - 593年)は、ゲウィセと呼ばれたサクソン人の一派、西サクソン人の長であり、後世イングランド西南部を治めたウェセックス王国の王として列せられた人物である[1]。このチェウリンのもとで西サクソン族は躍進したとされる。

系譜ではイングランドに上陸した最初の西サクソン人たちの首長チェルディッチの孫にしてキュンリッチの息子とされている。チェウリンの時代に長らくブリトン人と拮抗していた西サクソン人勢力は大攻勢に転じ、チェウリンが没する頃には南イングランドでブリトン人が抵抗する地域は数えるほどしかなくなっていた。
概要

アングロサクソン年代記によれば、チェウリンの関わった事例は556年から592年にかけてのものである。以下が年代記の概略である。

556年:ベラン・ビュルグにて父キュンリッチとともにブリトン人と戦う。

560年:西サクソン王国を継承。

568年:クタとともにエゼルベルトと戦い、ケントに追放した。またウィバウンダンにて二人の大守(エアルドルマン)を殺害。

577年:クスウィネとともにブリトン人と戦う。ディラムにて三人の敵王を殺害(デオルハムの戦い)。

584年:クタとともにフェサンラァグにてブリトン人と戦う。クタは戦死。

591年:西サクソンの王ケオルが5年間統治。このケオルはチェウリンとするものもある[2]

592年:ウォーデンズバロウで大殺戮、チェウリンが追放される。

593年:チェウリン死去。

しかし、この年代記は正確性に欠けており、チェウリンの治世ですら7年、17年、32年と年代記の写本によって違いがある。それゆえに年代記でチェウリンの関わった出来事の多くは、年代の正確性に疑問がもたれているが、チェウリンの生きたとされる時代において(後年その領土の一部を奪われる形になったが)西サクソン人は大躍進を遂げたのは確かである。そして、その業績からチェウリンは年代記にてブレトワルダと呼ばれたイングランドの8人の王の一人に列せられている。とはいえ、チェウリンの権勢がどこまで及んでいたかは分かってはいない。

権勢を誇っていたチェウリンは、592年に後継者とされるチェオルによって退位させられ、翌593年に没した。また、チェウリンは各資料より二人の息子、クタ (Cutha) とクスウィネがいたと伝えられているが、系譜学の立場からすると息子であるかどうかは疑わしいと言う。

また、チェウリンの名は現代英語にはあまり見られない綴りであるため日本語では表記が統一されておらず、「セウリン」、「ケアウリン[3]」、「ツェアウリン」、「チェオリン」の表記が見られるが、古英語で正しくは『チェァウリン』と発音するものと思われる[4]。以下便宜上「チェウリン」と統一する。
時代背景

5世紀、ゲルマン人が大陸からイングランドへと渡航してきたが、それが大規模な集団移民へと増大する。この新参者の中にはアングル人サクソン人ジュート人、フリシア人などいたが、現在ではさらに別の部族がいたことが確認されている。この集団は時代にイングランドの東部と南部を占拠し、先住民ブリトン人を圧迫し続けていたが、5世紀末にバドン山の戦いにおいてブリトン人に大敗して以後50年間、移住は一時停滞した。しかし、550年の初めになってブリトン人の勢いに再び陰りが見え始める。チェウリンはこの時代に生まれた。そして、その後の25年間で、南イングランドのほとんどの地域が、このサクソン人等の新参勢力の手に落ちたことが分かっている。

チェウリンの生まれたのがどのような時代であったかは、6世紀後半を生きたブリトン人の聖人ギルダスが著作『ブリトン人の没落 (De Excidio Britanniae)』で断片的に書き残している。同書には、具体的な名前や年月はほとんど記述されていないが、ギルダスが生まれてから同書の書かれるまでの間は平和が続いたと記されている。この意味では『バドン山の戦いの後の平和な時代』があったということでは一致している。しかし、これをサクソン人側の資料である『アングロサクソン年代記』と照らし合わせると食い違いがある。すなわち年代記の827年の項目に歴代の『ブレトワルダ』と称した王たちの名が(827年の出来事とは関係なくいきなり)記されているが、この時代をそのままギルダスが生きた時代とあわせると、平和であったはずの6世紀初頭に強力なサクソン人の王ブレトワルダたちが現れることとなり矛盾する。

いずれにせよ、チェウリンの統治は6世紀末のアングロサクソンの拡大時期に相当していることは間違いない。初期の系譜、活動に関して多くの答えの出ない疑問が提起されてはいるが、それでもチェウリンは南イングランドのアングロサクソン人の拡大の最終局を語る上で重要な人物の一人であることは変わりないだろう。
史料の矛盾点

2つの史料が主に挙げられる。ひとつはアングロサクソン年代記、もうひとつは西サクソン王族系譜目録 (West Saxon Genealogical Legnal List) である。

アングロサクソン年代記とは、過去の年表を結集させた書物であり、890年ごろアルフレッド大王の治世に校了した[5]。書物は今では現存しない過去の年表だけでなく、長く口頭にて伝承されたサガを書き留めたものもある[6][7]。この年代記では西サクソン族のブリテン上陸は495年となっており、チェルディッチと息子キュンリッチが「チェルディッチの岸」に到着したと伝える。20年の年代はチェルディッチの率いた戦いで占め、チェウリンの子孫によるものも後の100年の年表の中に散りばめられている[8]。チェウリンに関する情報は、ほぼこの年代記によっているいが、この年代記に記される項目の多くは、史実性が疑問視されている[9]

西サクソン王族系譜目録とはウェセックスの王、およびその在位の目録である。この目録はある程度の形を保って、例えば、アングロサクソン年代記の(B)写本の前置きとなって、残っている[10]。年代記と同じようにこの目録はアルフレッド大王の頃に編纂された。目録も年代記も、ともに西サクソン王の系譜がチェルディッチを通じて、祖先ゲウィス[11]に直系で行き着くように執筆者の思惑の影響を受けている。結果として写本の政治的な目的を果たすことになったが、歴史家が矛盾に悩まされることにもなった[12]

このことは別の史料から年代を割り出したときに顕著になって現れる。西サクソン王国の歴史の中である程度信憑性のある出来事のうち、最も古いものは、キュネイルスの洗礼であり、年代にして630年代後半から遅くても640年代の頃になる。年代記でのチェルディッチの上陸は495年となっているが目録の王の在位を入れて計算するとチェルディッチの統治は532年に始まり37年の開きがある。しかし、532年も、495年も確実性のある年代ではない。あくまでも途中で執筆者が実在する王を削ったり架空の王を増やしたりしていないことと年代記に記された王の在位が正確であることが前提になった値である。そのどれもが確実な推測とはいえない。

また、史料はチェウリン自身の治世の長さにも食い違いを見せている。年代記では560年から592年の32年間としているが、目録では違っており、7年または17年となっている。最近の西サクソン王国王族目録の研究では西サクソン族のブリテン到着は538年、チェウリンの治世は7年という意見が支持され、581年から538年としている。

チェウリンがキュンリッチの息子であることは、史料によって差はない。クスウィンの父であると普通書かれているが、ここでもひとつ相違が見られる。(A)写本では685年にチェウリンの息子にクタの名が記されているが、同じ写本の855年にクタがクスウィンの息子として記されている。また、(E)写本の571年、(F)写本の568年にそれぞれクタはチェウリンの兄弟であると記されている。

チェウリンがチェルディッチの子孫であるかどうかも議論の対象となっている。異なる西サクソン族の小さな集団ごとの系譜の記述が全く個別の集団を思わせ、また、チェウリンの名もその中に入っている。なぜウェセックスの系譜に幾分か問題が生じたかという理由として、チェウリンの系譜を他の系譜とつなぎあわす必要があったからと思われる。それは、自らの系譜がチェルディッチとつながっていることは当時の西サクソン王国では重要な問題であったからである。もうひとつの理由として、民族言語学上の立場から、初期の王族の名前の起源がゲルマン系と思われないからである。『チェウリン(Ceaulin)』という名前もアングロサクソン起源とは確信できない。むしろブリトン起源に思われる。

また、最古の文献には「西サクソン」という語句は使われていない。ベーダの「イングランド教会史」によれば「西サクソン」という語は「ゲウィス[13]」と同じ意味を持っている。「西サクソン」は7世紀後半、キャドワラの治世になって初めて現れる言葉である。
ウェセックスの躍進

ウェセックスは最終的に南西イングランドを占拠したが、この動きの中の決定的な局面は、史料にははっきりとは現れていない。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef