ダービー伯爵(第3期)
Earl of Derby
創設時期1485年10月27日
創設者ヘンリー7世
貴族イングランド貴族
初代トマス・スタンリー (2代スタンリー男爵)
現所有者エドワード・スタンリー
ダービー伯爵(ダービーはくしゃく、英: Earl of Derby)は、イングランド貴族の伯爵位。
過去に3回創設されており、現存する3期目のダービー伯爵位は、第2代スタンリー男爵トマス・スタンリーが1485年に叙されたのに始まる。
概要(英語版)に対して叙位されたのに始まり、6代にわたりフェラーズ家が保持したが、6代伯ロバート・ド・フェラーズ(英語版)の代の1279年に反乱によりヘンリー3世に領地と爵位を没収されたことで消滅。
ついで1337年にヘンリー3世の次男ランカスター伯爵エドマンドに第2期のダービー伯爵位が与えられたが、3代伯のヘンリー・ボリングブルックがヘンリー4世としてイングランド王に即位したため王冠に統合されて消滅。ダービー伯爵家の自邸ノーズリー・ホール(英語版)。
ついで1485年にトマス・スタンリーに対して第3期のダービー伯爵位が与えられ、現在に至るまでスタンリー家(後にスミス=スタンリー家に改姓)の世襲で続いている。
イギリスの競馬レースダービーステークスは創設者の一人であった12代伯エドワード・スミス=スタンリーにちなんで名づけられ、各国の競馬のダービーもこれに由来する。今日ではダービーの語は競馬以外でも競争の意味で使われている。またNHLの優勝杯であるスタンレー・カップは、当時ダービー伯爵襲爵前でプレストンのスタンリー男爵の爵位を持っていた頃の16代伯フレデリック・スタンリーが寄贈したことに由来する。
14代伯エドワード・スミス=スタンリーはヴィクトリア朝中期に3度にわたり首相を務めたことで知られる。
ダービー伯爵スタンリー家の邸宅はマージーサイドにあるノーズリー・ホール(英語版)である。伯爵位の法定推定相続人は、スタンリー卿(Lord Stanley)の儀礼称号で称される。
歴史
フェラーズ家フェラーズ家の紋章
ノルマンディー・フェリエール=サン=ティレール(フランス語版)の領主でノルマン・コンクエストに参加してヘイスティングズの戦いに従軍したヘンリー・ド・フェラーズ(英語版)の息子ロバート・ド・フェラーズ(英語版)(1062-1139) は、1138年のスタンダードの戦い(英語版)で活躍した功績でスティーブン王によってダービー伯爵位を与えられた[1][2][3]。
その息子である2代伯ロバート・ド・フェラーズ(英語版)(-1162) はウォリック州メアヴェール(英語版)やダーリー・アビー(英語版)に大修道院(Abbey)を建設した[3]。
その息子である3代伯ウィリアム・ド・フェラーズ(英語版)(-1190) は、ヘンリー2世に対する反乱を起こしてノルマンディーのカーンで拘束された。彼は後に第3回十字軍に参加し、アッコンの戦いで戦死した[3][4]。
4代伯はその息子のウィリアム・ド・フェラーズ(英語版)(-1247) が継承し、5代伯はその息子のウィリアム・ド・フェラーズ(英語版)(-1254) が継承した[3]。
その息子の6代伯ロバート・ド・フェラーズ(英語版)(1239-1279) はヘンリー3世に対して反乱を起こしたが捕らえられ、領地と爵位も没収された[3]。
なお6代伯の息子ジョン・ド・フェラーズ(英語版)は1299年2月6日にチャートリーのフェラーズ男爵(英語版)に叙せられている[5][6]。この爵位は女系継承でフェラーズ家からデヴァルー家、シャーリー家、タウンゼンド家に継承されたが、1855年に保持者不在 (abeyance) となり、現在までそれは解除されていない[5]。 1266年に6代ダービー伯爵ロバート・フェラーズから没収されたダービー伯爵領は、ヘンリー3世の次男でランカスター家の祖であるランカスター伯爵エドマンド(通称クラウチバック)に与えられた[7][8]。 その孫であるヘンリー・オブ・グロスモントは1337年にエドワード3世からダービー伯爵に叙された[9]。ヘンリーは1351年にランカスター公にも叙されている[9]。 ヘンリー・オブ・グロスモントの没後、これらの称号は娘のブランシュと結婚したジョン・オブ・ゴーント(エドワード3世の四男)に相続され[10]、次いでジョンの長男ヘンリー・ボリングブルックが継承した。ヘンリー・ボリングブルックは1399年にリチャード2世を撃破してヘンリー4世としてイングランド王に即位したため、ダービー伯爵の称号も王冠にマージされた。 スタンリー家
ランカスター家
スタンリー家